在校生の作品
掌編小説「十月五日の弁当」
乾いたピストルの音が小学校の校庭に響き渡り、一列に並んでいた男子が一斉に駆け出した。わたしはその様子を後ろからため息をつきながら見ていた。六年生約二百人が並ぶ列はピストル音が鳴るたびに減っていく。ずらずらと続いていた男子の列はあっという間にあとわずかとなった。その後ろには女子が控える。
もうすぐだ、もうすぐで自分の番が来る。周りに聞こえないように何度も深呼吸をし、バクバクと打つ鼓動を落ち着かせようと試みるも心臓は全く言うことを聞いてくれない。運動会なんて何がいいのか、運動が得意な子の独壇場ではないか、運動しているところが見たいのなら授業参観で充分ではないか。わたしは運動会が開かれる時期になると毎年こう考えていた。
列は人間を吐き出してどんどん少なくなっていくのに対して、わたしの中には焦りがつのっていく。順番はもうそこまで来ていた。前に詰めながら嫌だ、嫌だとなおも考える。
前の列が勢いよく走り出した。わたしは急いでスタートラインにつく。パーンと音が聞こえると同時に自然と足が地面を蹴った。心を置き去りにして。
顔に、体に風を感じる。今、自分はどうやって足を動かしているのだろうか、手を振っているのだろうか。わからない。わからないけれど体はゴールへと向かっていく。同時にスタートした子の後ろ姿がいくつも見えた。
ゴールの線を踏み越えると運動会係の子がわたしに近寄り「七番」と声をかけてきた。最後から二番目だった。肩で息をしながら『7』と書かれた旗の後ろにある列の最後に腰を下ろす。無事に競技が一つ終わったことに、特に嫌いな徒競争が終わったことに安堵しながら、今度は堂々と深呼吸をして息を落ち着かせた。
午前の競技が終わり、昼休憩に入るとわたしは保護者席にいる母のもとへ行った。すると母から少し距離をあけたところに父が立っていた。
「お父さん、来てたの」
「……おう」
父は少し気まずそうに返事をした。今日、十月五日に運動会があることをわたしは父に話していなかった。毎年「来てほしい」と言ってみても、いつも「仕事がある」と来てくれたことがなかったから、今年は声をかけなかった。だから父の姿を見て驚いた。
「弁当、公園で食べようか」
そっけなく母が言う。
保護者同伴であれば昼休憩の時のみ、学校の外へ出てもよかったので、小学校のすぐ隣にある、町で一番大きい公園へわたしと父と母は向かった。緑に包まれた町の憩いの場だ。
校門では低学年の女の子がお父さんらしき人に写真を撮ってもらっている。女の子は『平成二年度 運動会』と書かれた立て看板の横でピースをして、とびきりの笑顔を父親に向けている。わたしにはこんなときはなかったな、と思いながら横を通り過ぎた。
公園には十数組の家族連れがすでに来ていた。わたしと同じ体操服を着た子が何人もいる。木陰を見つけ、母から受け取ったシートを父が敷いた。みんなでシートに座り、母が弁当を広げ、三人での昼食が始まった。
父は卵焼きを皿に取り、わたしはおにぎりに手を伸ばし、母は紙コップに水筒のお茶を注いだ。黙々と食べた。誰も何も言わなかった。食べて飲んで、また食べた。
わたしは息苦しく感じた。顔を合わせれば罵り合い傷つけ合う、父と母のいつもの姿が頭に浮かぶ。またいつ始まるのかと思うと気が気でない。口に食べ物を運んで噛み砕いて飲み込む。ただこれを繰り返した。
周りの家族連れからは賑やかな声が聞こえてくる。笑い合う声も聞こえる。わたしは周りの様子を見た。きっとみんなはいつもこんなふうにご飯を食べてるんだろうなと胸が重苦しくなる。
しばらくして父が口を開いた。
「煮物、うまいな」
わたしは驚いて父を見た。父からそんな言葉を聞いたのは初めてだった。父はいつもと変わらない様子で煮物を飲み下す。母も同じように父を見たが、すぐに目を逸らして「うん」と言葉を返した。それからまた会話はなくなった。
わたしは父がおいしいと言ったかぼちゃの煮物を食べた。母のいつもの味が口に広がる。卵焼きもウインナーも野菜の肉巻きも鶏の照り焼きも、全部食べ慣れた味だった。
口を動かしているとふと鼻を通る空気がいつもと違うことに気がついた。草の香りがした。自分の体操服からは砂と汗の匂いがした。
ひんやりとした風が体をすり抜けていく。バッタが草の上を飛び跳ねる。鳥がさえずりながらわたしの頭上を飛んでいく。
デザートのりんごは別の容器に入れてあった。刺してあった爪楊枝を一本ずつ取ってりんごを口にする。わたしの口から、父の口から、母の口からシリシリという音がする。周りの賑やかな声は、今は小さく聞こえる。
弁当を食べ終え、わたしが荷物を持ち、父と母が協力してシートを畳んだ。わたしはその様子をじっと見ていた。
「もうすぐ集合の時間です。児童のみなさんは席に戻ってください」
小学校からアナウンスが聞こえた。
「行ってくる」
母に荷物を渡して走り出そうとしたら、父がわたしを呼び止めた。
「がんばれよ」
父はまた何事でもないかのように淡々と話した。
わたしはその言葉にも驚いた。「うん」とうなずいて踵を返し、自分の席へと急いだ。
今日はどっちも怒っていなかった。父が文句を言うことはなかった。母の料理をおいしいとさえ言った。食べる前にはシートを広げた。母と一緒にシートを片づけることもした。母も嫌味を言わなかった。
わたしは自然と笑顔になって駆けていた。
大太鼓の低い音が聞こえる。地響きのように連なる音の中、裸足になった六年生が入場門をくぐって校庭に散らばる。小石は前日にも六年生全員で取り除いたが、取りこぼしたものが足の裏を刺す。でも痛いなんて言ってられない。最後の演目、組体操が始まる。張りつめた空気が学校全体を包む。
わたしは大きく息を吸ってゆっくりとはき出した。揺れる心が、みぞおちあたりで静かにとどまる。
開始を知らせる笛が鳴る。
作品寸評
この作品は、半年前(25年3月)の“一日体験入学”における合評会で、テキストとして出されたもので、同席していた僕の目に留まった。
運動会の日の午前中、小学六年の<わたし>は運動が苦手なこともあって、徒競走などに楽しさを見いだせずにいた。学校近くの公園で、父と母と<わたし>の三人で昼食を摂ることになった。両親は日頃、「罵り合い傷つけ合」っているのに、今日に限って少しだけ会話があり、ちょっとした作業を協力しあった。
<わたし>の気持ちはいくらか軽くなり、午後の組体操に臨むことになった。
何度も読みたくなる好掌編である。ただ、“体験入学”のときには、小説の場面づくりに必須な[場所][時間][人物][事件]のうち、いつの時代という[時間]が欠落していた。僕は、[時間(時)]が特に設定されていないときは、今現在の小説として読んでしまう。それで、徒競走(優劣感をもたらすとして今は着順を決めなくなっているのではないか)や組体操(ケガ防止のためにと今は行なわれなくなっていると聞く)の描き方はどうなっているの? と思ってしまった。
この冊子に掲載するに当たり、作者に[時間(時)]の設定を補足してほしい、と所望した。それに応え、作者は「校門では低学年の女の子が・・・・・・『平成二年度 運動会』・・・・・・と思いながら横を通り過ぎた。」と書き加えてきた。
古めかしい、というなかれ。今でも、このような家庭状況はどこにでもいくらでもあるのではないか。このような両親の中で育つ子供たちにこそ、読んでほしい作品である。「ひんやりとした風が体をすり抜けていく」はずである。
(小原政幸)