在校生の声

19春 入学生の想い

夜間部本科 平良みなみ (大阪府)

本当にしたかったこと

小説を書きたい、作家になりたい、昔からそう思っていた。でも、その思いをこれまで誰にも言ったことがなかった。言ったところで一笑に付されるだけだと思ったからだ。
 小説を書きたい、夢はプロの作家になりたい。でも、そのタイミングは今じゃない。そんな風に思っているうちに、社会人になり、気が付けば二十代の後半に差しかかっている。
「いつか」は書いてみたい。「いつか」は作家になりたい。しかし、その「いつか」がわからない。ひょっとしたら、わたしは一生来ない「いつか」を言い続けて、人生を終えるのかもしれない。それだけはいやだ。
 そう考えた結果、小説を書きたい、作家になりたいという思いと本気で向きあうことにした。
 今年の四月から突然、金曜夜の誘いを全部断るようになった。そのせいか周囲からは相当怪しまれた。同僚や友人には「(文章が上手くなるという意味で)仕事の役に立つ学校に行くんです」とだけ伝えた。おかげでわたしはファイナンシャルプランナーか社会保険労務士かなにかの資格を取りに行っていると思われているらしい。
 関係が冷え切っていた恋人にだけ、正直に話をした。とくに肯定も否定もされなかった。別れたのはその話をした二週間ほど後のことだ。
 大阪文学学校に来ると、(至極当たり前のことであるが)周囲の人はみんな小説を書くため、作家になるために来ている訳なので、何も隠すことはない。自分に正直にいていいのだ。なんと居心地のいい環境だろう。
 生まれてはじめて原稿を書き上げ、提出してから一週間、毎日のように合評の夢を見た。合評が怖くて仕方なかった。言われること自体が怖いわけではない。自分の心が折れて、二度と何も書けなくなってしまったら、あんなにやりたかった小説を書くことができなくなることが一番怖かった。合評の際に泣くかもしれないと本気で思っていた。
 合評の指摘は的を射ていた。キャラクター設定、ストーリーの起伏、登場人物への感情移入、場面描写の粗さなど、ありとあらゆるところに突っ込まれた。ただただ、力不足を痛感した。
 合評を聞いていたとき、わたしは笑顔だった。誤魔化すためのぎこちない笑顔ではなく、心からの笑顔だった。恐らく周囲の人たちに見せても、ここまでの感想は返ってこなかっただろう。わたしの作品をこんなに真剣に読んでくれる人たちが世の中にいたんだと思うと嬉しくて仕方なかった。
 実は合評が終わってからの方が眠れていない。
 あの時のわたしの実力ではあれ以上の作品を書けたとは思えなかった。しかし、あのセリフをちゃんと入れておけば、あのシーンをもっと丁寧に書いておけば、などと毎晩考えている。
 くやしいのだ。自分自身に。くやしくて、眠れない。
 反省とくやしさをエネルギーにしつつ、早くも締め切りが迫っている次作をどうしようかずっと悩んでいる。悩みながらも、幸せを感じている自分がいる。好きなだけ小説のことで悩んでいいのだ。悩むことができる喜びをかみしめながら、自分が本当にしたかったことを好きなだけやろうと思う。
〈在籍半年 「文校ニュース」19・6・17〉

19春 入学生の想い

通教部本科 梅澤 (東京都)

〝完成〟を目標に

入学申込時に「私が作品を完成させるには、仲間と締切が必要だ!」と書いた。とにかく作品を完成させること。それが目下の目標である。が、何をどう書いたらいいのかわからない。書きたいことがないわけではない。断片だけなら溢れかえっている、のだがしかし。
「事務所の二階がお座敷になってて、そこで役人に女の人をあてがって入札の話を聞き出したりねえ……」
 なんて話がいきなり始まったりするから、現実は本当に油断できない。戦後の土建屋に嫁いで社長夫人として生きてきた祖母の話は土建屋と政治屋の癒着にはじまり、戦中の女学校に遡り、「米軍さんかっこよくない?」と色めき立つ終戦直後の女学校の生徒たちと、同じく終戦直後のアメ横の景色が立て続けに流れてきて想像が追いつかなくなる。唐突に現れた「逃げるようにブラジルに行った元軍人」の話から地球と時間をぐるりと回って、振り込め詐欺のあったお隣さんのいる現代に戻る。中上健次好きの私は、おこがましくもオリュウノオバを思い出し、なんとか整理していつか書かねばと何度目かの決意を胸に秘めたりするのだが、とはいえ、録音してネットに上げれば、味のある上州弁をそのまま世界中に発信できる現代である。
 休日昼間のファミレスで、ドリンクバーの女子会をすれば、酒など一滴も入らなくても男だ介護だ子育てだの話は尽きない。ストーカーに追われて警察の世話になりました一件、あら奇遇私も空き巣で警察に一件、それはどう考えても強姦ですけど今更起訴はできないんでしょう数件、臓器を移植するために婚姻届を出すことに一件、病気の親きょうだいが病院に行ってくれないのですがせめて腕力があれば担いででも行けるのでしょうか等々。
 刺激的な話もためになる話も、インターネットで検索すれば当事者の生の声でありのままの現実が読めてしまう昨今。祖母の話も女子会も、現実を発信したいだけならツイッターで十分で、世界を相手にするのだったら英語のほうがよほど合理的で、「百聞は一見に如かず」を「百見すら経験に如かず」と言い換えねばならないほどに、言葉に依存しないメディアは増えて、それらは容易に言語の壁を越えていくのに、それでも「日本語で」「小説で」書きたいと思う自分がいるのだ。
 やりたいことをやればいいと友人に言われた。楽しめればいいのかと訊いたら楽しくなくてもいいと言う。書くことが楽しいかと言われればよくわからない。「小説で」書きたいという気持ちだけはある。なんで小説なんだろうなと、思いながら書いている。
 完成させて初めてわかるものもある。これまでがそうだった。読み返してぎょっとする、あのかんじをまた取り戻したい。現実は音速を超えるジャンボジェット機のように私の妄想を追い越していくのだがそれでも。
 なんで書くのかはあとから考える。ひとまず一本、できれば二本。「完成させること」を目標に、一年間、小説に向き合っていきたい。
〈在籍半年 「文校ニュース」19・6・17〉

課題ハガキ

昼間部本科 堀川 諭 (兵庫県)

文学学校入学にあたって

三年ほど前に病を得た。中二で別れた息子の病院に入院、検査が進むにつれ、思っていた病気のほかに別の大きなモノが見つかってしまった。腰が抜けた。長く一人暮らしをしてきたので、大げさに言えば毎日人生の最期のことは考えてきたつもりだったのに、だ。後から見つかった方の手術を受け、最初のやつは放射線治療で行くことになった。
 術後しばらくして定年退職を迎えた。それから歌舞音曲に明け暮れたが、芝居から戻る道すがら、無性にたまらなくなってくる。このまま終わるのか、なんて思って、思わず足がすくんで立ち止まってしまう。そんなとき、文校の新入生募集記事に目がとまった。「ひとりひとりが自分のなかにかかえもっている切実さにむけて、それぞれの力で、ともかく何かを書くことからはじめます」。自分を招いてくれているようで、心地よかった。
 何を書いたら良いのかも分からないけれど、まずは書いてみよう。頭の中であれこれ考えているうちは、森の中を彷徨っているのと同じだ。いま自分が何処にいるのか、何処に向かおうとしているのか、案外わからない。書くことで森を俯瞰できる。森の中の自分の位置が見えてくる。頭の中のモヤモヤした考えの前駆体は、頭から飛び出して、初めて考えとなるのだ。悔しいけれど、自分の中に姑息で卑怯なヤツがいる。書くことで、そいつの息の根を止められたらどれほどすっきりすることか。さすれば、こんな私でも生きている価値がある、と思えるような気がする。まず、書いてみよう。そこからだ。
〈在籍半年 「文校ニュース」19・8・9〉

課題ハガキ

昼間部本科 清水美佐江 (静岡市)

文学学校入学にあたって

私は退職後の2018年4月以降、旅行、ヨーガ、歌、水泳、ノルディックウオーク、料理、地域活動、家中の断捨離等、これまで続けてきたことの中でもっと極めたいことや、新たにやりたいと思っていたことを早速開始した。心は弾け多忙な日々を送っていた。
 しかしそんな生活も九カ月で一変した。夫が大病を患ったのだ。私は心弾けた生活を一旦休止せざるを得なくなった状況の中で、やりたいと思っていたこと「文学を通して人生とは? 生きるとは? を考えながら、これまで温めていたことを表現したい」が手つかずのままであることに気づいた。「文学を通して」と書いたが私の読書量は極めて少なく読む本も偏っている。また人生を考えるには、三十数年間の職業人生は、固定した職種での経験に過ぎないため、私が知らない世界はたくさんあり、物足りない。
 つまり、人は苦境に立った時にどのように乗り越え人生を送っているのか、どのように喜びを感じているのか等、人の生きざまをもっと知りたいという自身のテーマがあった。書物を通しても学べると思いつつ、私は人との相互作用の中でこのテーマに向き合いたいと考えた。これが入学の動機である。
 そして入学するまでの間、村上春樹短編3作(『文学界』の特集)を読んだ。良い作品だった。入学後、仲間の作品に触れた。回を重ねるごとに時間が経過しても仲間の作品は容易に内容を思い出すことができるのだが、一方、村上氏の作品はその内容を思い出せないことに気づき驚いた。この違いは何を意味するのか。仲間と感想を語り合ったか否か、そのことだけが要因とは考えにくい。では何故だろう? 私はこの疑問の解答を、静岡、新大阪間の新幹線の中で考えながら通っている。
〈在籍半年 「文校ニュース」19・8・9〉

通教部本科 吉川道廣 (静岡県浜松市)

文校入学のきっかけ

二年ほど前、会社で親しくしていた文学好きの友人が、母の介護のため退職する私を労わるつもりからか、「家からあまり出られないだろうから気分転換に小説でも書いてみたらどうだ」と言った。
 飲みに行ったとき、この友人は、様々な小説の話を夢中になって話してくれる。
 物語の内容だけではなく、書き手である作家の人柄やエピソードまで詳しく知っていた。
 小説家というやつは、まっとうな仕事をこつこつと続けることのできない、ろくでなしばかりだな、というのが話を聞いた私の作家に対する印象である。
 友人は小説を書いているようだが、私は読書好きではあるが、書いてみようと思ったことはなかった。
 そして、東京、横浜、大阪の文学学校をいくつか教えてくれた。
 それらの学校には芥川賞や直木賞を受賞した作家が講師を務めているところもある。きっと、高名な作家を連ねれば小説家志願の人たちが集まるのだろう。
 だが、私にはそのようなことに興味はなかった。頭の芯が濁っている私に、人様に読んでもらえるような物語を編めるはずもない。
「自分が楽しむだけでいいじゃないか。夢の世界で遊べるぞ」と友は言う。返事をせずにいると、それじゃ、学校のブログだけでも読んでみろよ、とシツコイ。自分の好きな世界にどうしても引きこみたいらしい。
「どの学校でも様々な客引きブログを出しているが、大阪文学学校というところのブログを主に書いている小原という人の文章は、巧まぬ天性のユーモアがある」と文学好きらしいことを言った。楽しめるかも、とも。
 そして、それから二年、私と同い年の小原事務局長のブログを読むのが寝酒のアテになった。
 すっかり子供返りした95歳の母は、元気そのもので、私は少し痩せた。
 毎日夜が更けるまで、狭いリビングでは母の独り運動会が開催される。昼は昼で、単調ではあるが、様々な親孝行をさせてくれる。
 その間、茫然としているだけなのも退屈だし、相変わらずの友人の勧めもあり、ほかに趣味もない私は小説を書いてみることにした。そして小説もどきを最近一作でっち上げた。どうにもならない駄作であることは分かったが、愛着も湧いた。もっと上手に書きたくなった。友人に読んでもらうのは恥ずかしい。
 文校のブログは2008年のものからすべて読んだ。その中に、古く傷んだ床の一部が剥がれ、小原さん自らが張り替えをしている、という一文があった。ガリガリ、ベリベリ、ゴシゴシ。大きなお腹(多分)をした小原さんが床にかがんで作業をしている姿が目に浮かぶ。
 職場で、自分の意志で、自ら床を張り替えられるなんて、小原さんはいい人生を送っているな、と思った。この学校で学んでみたい、と思った。
〈在籍一年 「文校ニュース」19・3・4〉

スクーリング体験記

通教部本科 皐月あや子 (北海道札幌市)

北海道地震、大阪行きで夫とバトル

スクーリングまであと数日に迫った〔二〇一八年〕九月四日、台風による大雨で関西国際空港が水浸しとなった。私は八日の午前の便で千歳から関空行きの便で大阪入りする予定だった。あわてて伊丹行きや神戸行きを予約しようとしたが、どの便もすでに満席。仕方なく、中部国際空港行きを予約した。
 だが、胸をなでおろした私を嘲笑うかのように、六日未明、午前三時七分マグニチュード六レベルの地震が北海道を襲った。そして停電。
 電気はなかなか復旧せず、千歳空港も被害にあい、またしても私の大阪行きは絶望的となった。でも、私は諦めてはいなかった。飛行機もホテルもキャンセルせずにひたすら神に祈った。(私はクリスチャン)
 七日午後から千歳空港再開となり、大阪行きに希望が灯った。しかし、わが家には要介護2の母が同居している。停電中は、母が用を足すたびに、私が水を汲んで便器に流していた。夫に、そういうことを頼むのは心苦しかった。電気が復旧すれば大阪に行ってもいいと夫は言ってくれた。
 電気はなかなか復旧しなかった。じりじりと私は焦っていた。午後六時過ぎには暗くなるので、母は早々にベッドに入り、夫と私は車の中に籠り、テレビを眺めたり、スマホにチャージをしたりしながら大阪行きについてバトルを繰り返していた。
「電気が復旧しなくても大阪に行きたい」
「どうしてスクーリングに行きたいのか理由を言ってみろ」
「私の小説が(樹林に)掲載されているから、合評で意見を聞けるから」
「それだけの理由か? スクーリングは何回あるんだ」
「年に四回、次は十二月」
「じゃ、十二月に行けばいいだろ」
「でも、行きたい」
 同じことを延々と繰り返していた。夫は執拗に私を責める。午後八時半頃、夫が突然叫んだ。
「電気がついた」
 周囲の家に灯りがともり、わが家の玄関にも、家の中にも明かりが満ちた。
 電気がこれほどありがたいと思ったことはない。
「大阪行っていいぞ、その代わり、帰ってきたら俺に尽くせ、今以上にもっと」
 夫の姿に後光が射すように見えた。
 翌日は夫が運転する車で空港へ向かった。飛行機は欠航する恐れもあった。飛行場へ着いて、グランドスタッフの方に「名古屋行き、十一時二十五分発、飛びますか?」と尋ねると「飛びます」との返事。
 嬉しくて言葉には言い尽くせなかった。
 神様が私に「行け」と言っているのだと思った。いろいろあったけど夫は結局、笑顔で私を見送ってくれた。
 結婚してから亭主関白の夫に尽くしまくってきた甲斐があった。夫婦もギブアンドテイクなのだ。
 名古屋に着き、新幹線乗り場のキオスクで学校のスタッフの方にお土産を買い、新大阪に到着。地震でお土産を買えなかったので。
 八日のプレ・スクーリングにも途中から参加でき、終了後には何と私を心配してくれた美月チューターが学校に寄ってくれた。九日は午前九時から懇親会終了まであっという間だった。志を一つにする仲間たちと出会い、文学について熱く語りあい、私の初スクーリングは終わった。
 スクーリングに参加するまで、ハラハラドキドキの連続だった。こんなスリリングな体験も時間がたてば、きっと笑い話となって、稀有な思い出となるのだろう。
 皆さんお会いできて本当に良かった。ありがとうございます。スタッフの方々へ今度は六花亭の銘菓をお土産に持参します。夫にも感謝。今日から私は良き妻に戻ります。
〈在籍一年半 「文校ニュース」18・10・1〉

特別講座に参加して

夜間部専科 森野十駕《とうが》 (兵庫県)

辻原登さんのカフカ論

カフカはぼくが全集で持っている数少ない作家だ。しかし、全巻がそろった段階で、もうあまり読まなくなった。皮肉混じりの硬質な文章にひかれながら、もう片方で、いつまで経っても確信的に納得させてくれないぎこちなさのようなものを感じて、しばらく距離を置きたかったのだろうと思う。いまから三十年ほども前の話だ。
 ここ何年かで立て続けに新訳が出たので、いくつか読み返してみた。昔は気難しく感じたこともある文章が、どこかに気恥ずかしさを含んだほほえましい表現に思えたりもした。多分、こちらが若いときほど構えて読んでいないせいなのだろうと思った。
 辻原さんは『東大で世界文学を学ぶ』と題して、ドストエフスキーやポーなど、世界の名だたる作家の講義をされている。カフカへの思いもひとしおで、読み続け、調べ続けて、もう五十年になるとのことだった。だからなのだろう、ぼくが文校に着いたときには、平日のお昼過ぎの会場が、さも当然のようにほぼ満杯になっていた。この日を待って「半休を取って来ました」という方もいらっしゃった。
 講座では、手書きされたお手製の「カフカ年表」が配られた。あのしかめ面した作家の恋愛や婚約破棄の回数などもすべて記されている。下宿先のベルリンでは同時期にナボコフと辻向かいに住んでいたという発見もあって、お話されるたびにカフカの人となりや時代背景があぶり出される。
 こういった読み解きは、何より辻原さんご自身が楽しそうだった。テキストになった『変身』では、数字の3へのこだわりや、ザムザの死が家族に再生をもたらしたという指摘もあった(確かに、イカロスや鶴の恩返しなどと違って、『変身』はいわゆる普通の変身譚ではない。虫に変身したザムザに、スーパーマンのような活躍シーンは一度も訪れない)。
 しかし、文校ならではの良さがもっとも際立ったのは、講義後の質疑応答のときだ。夢の記録や、芋虫に変身したのか甲虫なのかという質問に混じって、「私は先生が芥川賞を獲られたのと同じ45歳です」という男性が少し長めの質問をされた。いま仕事をしているが、書きたいことがいっぱいで、読みたい本や勉強したいこともいっぱいで……。要は、すぐにでも書くことに没頭したい! という思いにかられた質問だった。
 辻原さんはそれまでのアカデミックな雰囲気とは打って変わって、「私は28歳まで働いたことがなく、文学に囚われていました」と答えられた。「でもこれではダメだと一念発起して、二年間中国語を勉強しました。そして小さな会社に就職して一生懸命働きました。もう文学なんか完全に忘れてしまうくらい。で、恋をして結婚もしたある休みの日の朝、妻のトーストを食べていて、ふと、この幸せを書こうと思って書いたのが処女作になりました。今は正業で暮らせない人がたくさんいます。まずは仕事を続けて楽しむことです」
 この回答に、会場から期せずして拍手が沸いた。聞きにくいことが聞けて、何の嫌味もないまっすぐな答えが返って来る。その答えを聴衆の誰もが我がことのように頷きながら聞く。まさに文校ならではのQ&Aなのだろうと思った。
 講演後、辻原さんは「甲虫の見本です」といって、ご自身で用意された八本足の灰皿を見せながら退出された。その足で次の織田作之助賞の贈呈式に向かわれるとのことだった。
〈在籍一年半 「文校ニュース」19・4・1〉

学生委員会の活動

19年度春期学生委員長 窪野 元 (夜間部・研究科)

「類は友を呼ぶ」という言葉がある。私はこの言葉が好きだ。
 ある人が言った。「この学校に入るのは一万人に一人だ」と。それぐらいここに入る人間は少ない。が、ここには文学を志す類の人間が集まってきている。職業も、お好み焼き屋から弁護士と実に様々で、どの人をとっても個性的でユニークな人ばかりだ。あなたにしたって例外ではない、と私は踏んでいる。ここはまさに「類は友を呼ぶ」場所なのだ。
 そんな個性的な人間が集まるこの学校で、私は学生委員会の委員長をやっている。我々委員会は日々、この学校をより面白い場所にできるよう頭をひねっている。あなたが学校に慣れ、一息ついたとき、もし「類は友を呼ぶ」という言葉を思い出したなら、是非一度委員会を覗いてみてほしい。

【各部の活動内容】
 一 在特部  文校発行の月刊誌『樹林』の六月、十一月号は「在校生作品特集号」です。在特部は、作品の募集、選考、編集、発行を経て作品の合評会実施まで全てを担当します。
 二 イベント部  春、秋の新入生歓迎文学散歩(軽いウォーキング)、七月の夏季合宿(一晩どまり)、十二月の文学集会(文化祭のようなもの)などを企画、実行します。
 三 学生新聞部  学生新聞『コスモス』を発行しています。在校生のコラム、詩、小説やイベント情報・広告など独自の紙面作りをしています。

隔週の月曜日の夜に、文学学校の教室で開催します。
月曜日の夜に都合が付く人は、ぜひご参加ください。

うちのクラスは
こんなんやで

昼間部本科/小説(夏当紀子クラス)

「タイトル大事、書き出し大事、会話が大事。人間書けずに何の小説ぞ。やりぬけー!」
 わが夏当クラスのチューター「ナットウ・ノリコ」さんのモットーです。深ーい含蓄、微妙な味わいは、これから追々に。縁を求めてやっと巡り合えた「わが師」いや「和菓子」です。味わい尽くしたい。今は、思い通りにいかなくて、しょっぱい思いもしているバンダナ頭巾です。夏休み明けの金曜の合評会、俎上に載ったわが作品は不評。
 週明け「わが夏当クラスから二人が、在校生特集号でデビュー」のメール。お姉さん方すごいです。当方七〇歳超、でもあこがれです。今に見ておれ僕だっての意気地もなく、ぼーっとしていた時、小原事務局長から人物中心にクラスの紹介を書いてみたら? まるで助け舟。乗りました。
 クラスメンバーは多士妻々いや多士済々、まずはプロの舞踏家にたまげ、チベット一人旅は女性だったり、人食い女が二人もいます。前週は冷凍の死冷え(しびえ)料理、翌週はこの上なく上品な生きたままの踊り食い、でも話はパステル調で怖くはありません。いやそれが怖いのか。
 社長さんいや級長さんは粋な人、はんなり濃厚に男女の情を書かせれば絶品です。◎美魔女さんは元アイドルの幽霊にちょっとエッチなファンサービスをさせました。この辺りが小説家と童話作家の分水嶺なのでしょうね。
 阪神大震災当日、二度寝した見かけとは逆の豪胆な女性、◎子供時代を精密画のように描く達人、銭湯を抜ければ子供時代へ帰れるお兄さんがいます。童話が服を着て歩いていたり、潔癖のトゲが見えたりもします。平成生まれの真面目な町娘、次はきっとデビュー。クラス委員はおしゃべり好きな検索の達人です。新人二人はこれから、これから。
(バンダナ頭巾)

うちのクラスは
こんなんやで

夜間部本科/小説(西村郁子クラス)

メンバーはチューター+8人。年齢の幅が広い分、作品は純文学、SF小説、時代小説、私小説、青春小説、と分野の幅も広いです。作品のレベルは高く、改稿後の作品はどれも本屋さんの店頭に並んでいるものでは、と疑いたくなるほどです。
 入学前、「大阪文学学校ってどんなところだろう」とネットで調べていたら「厳しい批評を受けて作品が書けなくなった」という内容の元文校生の投稿を見つけ「もし入学したとしても私はこんなクラスメートには絶対にならないでおこう」と固く決心しました。
 私は元々物事を深く考えないでずけずけ言うタイプの人間。なのでクラスで決心どおりに上手く振舞えていたかはかなり疑問ですが、「意見はできるだけ当り障りなく、質問はなるべく単語の意味が解らない、など作者の気持ちに立ち入らない程度に」を心掛けてずっとゼミに参加してきました。
 大学のゼミに、まともに本を読んだことすらない小学生が混ざりこんでいるかような私の存在。冷静に考えるとすごく惨めで恥ずかしいのですが、それでも欠席なしに文校に通うのは、理解力のない私に言い方を変えたり、例えをつかったり、長い時間をかけ諦めないでずっとアドバイスを続けてくれるチューターと、作品の良いところを苦労して見つけて必ず一言ほめてから批評を始めてくれるメンバー達に囲まれて「ここに存在していてもいいのかなあ」と感じることができるからだと思います。
 合評会でのメンバーの意見を聞いていていつも思うのは「ここまで読み込んで参加してくれているんだ」ということ。仕事を持ち忙しい日々の中、時間を作ってメンバーの作品に真剣に向き合ってくれる。みんな優しいのです。
 (春野のはら)