在校生の声

21春 入学生の想い

通教部本科 峯本雅子 (京都府)

拝啓 十二歳のわたし

先日、実家に立ち寄ったとき、しまいっぱなしだった小学校のころの卒業文集を開いた。小学校を卒業したばかりの娘がどうしても見たいというので、押し入れから引っ張り出したのだった。正直、見られたくはなかった。何を書いたのか覚えていないし、文章を書くのは苦手だったからだ。どれくらい苦手だったかというと、当時、小学校の教師だった母に、読書感想文を一度だけ代わりに書いてもらったことがある。ところがその感想文が入選してしまった。明らかにわたしが書いたのとは違う感想文を、担任の先生はどう思っていたのだろうか。
 しぶしぶ、娘と一緒に色あせた表紙をめくる。
「小学校の思い出は?」というタイトルでは、〈修学旅行が楽しかった〉としか書いていない。
「中学校になったらどんなことをしたいですか?」
 これに関しては、〈中学校は小学校と何が違うのかなぁ……〉と答えにもなっていない。文章力というより、もはや別の問題にも思えてくる。娘は隣で笑い転げている。さらにめくっていると、〈十年後の私へ〉というタイトルを見つけた。もう十年後はとっくに過ぎたけれど、読んでみて仰天した。
〈今の私の夢は、小説家だけれど、ひょっとしたら、十年後は変わってるかもしれないね〉
 こんなことを書いた記憶は一切なかった。当時、ピアノを習っていて、特に好きでもなかったのだけれど、将来の夢を聞かれたとき、とりあえず「ピアノの先生」と答えていた記憶があった。てっきりピアノのことを書いていると思った。しかも十年後は変わっているかもしれないことを、十二歳のわたしは予測している。実際、十年後のわたしは音大の学生だった。
 そういえば小学校六年生のとき、国語の授業で創作の時間があり、書いたお話を先生に褒められたのを思い出した。作文や読書感想文は苦手だったけれど、お話を書くのは好きだったのだ。
 十二歳の私からの思いもかけないメッセージに、なんだか「えらいこっちゃ」と思ってしまった。まさか本当に文学学校に通うことになるなんて。
 いろんな縁があり、今は書くということに心を砕いている。昔、書けなかった反動なのかも、と感じることもある。自分の気持ちを口にすることや言葉にすることが、極端に苦手だった。
 十二歳のわたしから、心の奥にしまい込んだことや、どうしても表現できなかったことを、そっと手渡されたような気がした。わたしはそれを受け取り、しっかりと胸に抱える。
 書くことは心を探ることでもあると思う。形のないものに形を与える作業は、正解も間違いもなく、ひたすらに自らを追究することなのかもしれない。その作業に終わりはないし、生きている限り形を変えて自分の前に表れるものを、丁寧にすくい上げていくということでもあると思う。書きたいと思っていたあの頃のわたしに、とりあえず返事をしておきたい。
 書きたい人たちがたくさんいる場所に来たよ、と。どんな形であれ、今は書き続けようと思う、と。
〈在籍半年 「文校ニュース」21・6・21〉

21春 入学生の想い

昼間部本科 平良ななめ (大阪府)

ひとと違うことを おそれないで

ひとと違うことをおそれないで。目の奥が熱い。またたきと同時にマスクの紐が濡れる。だって、あなたたちは今、どこにもないお話を生み出そうとしているんです。石つぶてのような、入学式における朝井まかてさんの言葉は頬を打ち、弾けて消えた。
 見学なんぞ必要ない。入るか入らないか、ふたつにひとつなのだから。「普通はありえない。小説はウソを書いてなんぼ」品の良い微笑み、ときおり早口になりながら語る、チューターというひと。
 皆、穏やかに落ち着いて、そのくせ内心は燃えたぎるようなプライドと欲を腹の底に溜め込んで、なにげない風を装い席につく。
 これが世間なら。世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう? 赤信号、みんなで渡ればこわくない、右にならえ前ならえ。そうなんですね、毒にも薬にもならぬ相槌だけを量産し日が暮れる。カラスが鳴くから帰りましょう、よいこはねんねしな。
 真剣に虚を論じ合う、少し世間からずれたおとながたくさん。今よりもさらに青臭かったあの頃、恥ずかしげもなく振りかざしたブンガクという見えぬ影、読者に向けて語るもの。
 書きたい気持ちはある。けれどもなにを書いたらいいのかわからない。書くしかないとも知っている。書きながら考えて感じて。とにかく書いてみて。ざっくり大海へ放り投げる、波に呑まれ溺れよと、なんという荒々しさか、思わず笑みがこぼれた。
 文校へいく日は、少しだけお洒落する。といってもたかが知れたもの。普段のほとんどをデニムで過ごす私が、週に一度だけスカートをはく。四つしかないイヤリング、お気に入りの二つを交代ばんこにつけて。原稿のプリントアウトは自分でするのだと。プリンタを新しくネットで買う。モノクロ専用でこと足りる。打ち出すのは文字だけだから。
 書いていいのだと。下手糞でもなんでもよいから書いていいのだと。「四つの覚悟をもてよ」とチューターがいう。書く、読む、聞く、言う、言葉に責任もてよというのだ。この言葉でなければダメだったのか。そんな問いかけ、いつぶりにする、てにをはのひとつにもこだわって、たった一行のためうんうん唸り、ひとの文章を読んでは打ちのめされ。
 半鐘が鳴っている。淀んだ身のうちに細い小川がちょろちょろ、私は、今、どこにいる、上流の水源へはたどり着けない。ふうと深呼吸。慌てず、耳澄ませ目を凝らす。もういいかい、まあだだよ。いつまでかくれんぼをするつもりか。待ったとて、天から恵みは与えられぬ。土を掘る。小さなスプーンでひたすらに土をかき分ける。そう。判断したり、感じたりするのは読者という。
 だから、あなたは今、なにを感じていますか?
〈在籍半年 「文校ニュース」21・6・21〉

21春 入学生の想い

昼間部本科 正木邦彦 (大阪府)

毛髪人生

僕が今年、この大阪文学学校への入学を決意したのには、実は語るも涙の切実な理由がある。
 あれは今からおよそ30数年前のある風呂上がりのこと。
 鏡に映る自分にどこか違和感を感じた。よく見ると、前髪にスキマがある! 見慣れない肌色が垣間見えている。そういえば、この前に散髪屋でいつもと違う流れがあった。こちらからの注文を話した後、これまでは必ずおじさんが言ってくれる一言がなかったのだ。
「髪の毛、すいときますね」の一言が。
 その時はたいして気にもしなかったが、こうしてあらためて出現した肌色地帯を目の当たりにして、すべての謎が繋がっていった。
 そうだ。僕はもはや、向こうの世界の住人になってしまったのだ。
 世間から「髪の毛の不自由な人」として同情される自分が浮かんできた。それからというもの、リアップ、リゲインなどありとあらゆる発毛薬を試したが、どれも産毛が生えてくれば大成功というレベルで詐欺まがいの商法の被害に遭うことも一度や二度ではなく、ネットの画面は過去に検索したカツラや植毛の広告ばかりが表示される。あるときはアロエのエキスを焼酎に浸してそれをキリフキで頭に吹きかければ確実にふさふさになるとの情報を得て歓喜してやってみたところ、頭にアルコールの匂いが染みついて、飲酒検問で警察官から疑われ、「いやこれはアロエのエキスを……」と弁解しても「何がアロエじゃ!」と不審者扱いを受ける始末だ。
 なんとかして毛根を復活させる方法はないかと調べると、今までにあまり使っていない脳を活性化させると刺激によってミノキシジルが分泌されて毛が生えてくることがあるとの研究成果を発見。これまでに使っていない脳とは? 演劇の脚本は劇団の座付作者として30年書き続けてきたが、ここは一度全然違うと言われる小説に挑戦すれば脳の別の箇所を刺激できるかも。そこで知人から聞いて大阪文学学校にたどり着いたというわけだ。
 ここで小説を書くことができれば、僕のどんより雨雲続きの毛髪人生も、「明日はきっと晴れ」とできるだろうか。
 間違っても、「明日はきっとハゲ」だけは避けたいところだ。
〈在籍半年 「文校ニュース」21・6・21〉

21春 入学生の想い

夜間部本科 西村美春 (大阪府/21歳)

忘れかけていた夢を求めて

「ねぇあんた朝井まかてさんって知ってる?」
 4月10日、母が唐突に尋ねてきた。
「え、そりゃ知ってるけど……何でいきなり?」
 編集職志望者で彼女の名を知らない人はいないだろう。
「彼女、文校の出身者らしいわよ」
「文校って何?」
「大阪文学学校っていって作家の養成所? みたいな所。明日の入学式に卒業生として出席されるらしいわよ、日経に載っててんけど」
「ふ~ん」
「あんたも通ってみたら? あんた昔から作家になりたいって言ってたやん」
 無理無理、なれるわけないじゃん、と一笑に付した私であったが、それでも心の何処かに母の言葉がこびりついていたのだろう。
 三日後、私は何の気無しに日経新聞を手に取り、Googleの検索エンジンで「大阪文学学校」と調べている内に日々の忙しさに忙殺されて忘れかけていた「出版社を志したきっかけ」を思い出した。
 そうだ、幼い頃の私は一日中図書館に籠っては本を読み耽ったり自作のポエムを書く毎日だった。自分の人生を変えてくれた「本」という存在を通して、今度は私が創り手として人々の人生を豊かにするお手伝いをしたい。そこから私の人生設計は始まっていたんだ。
 気づいた時には、私の指は文校の電話番号を入力していた。
〈在籍半年 「文校ニュース」21・6・21〉

課題ハガキ

夜間部本科 中井 豊 (大阪市)

最近考えていること

三十代だったときに友人と香港映画の対訳本を企画しました。新聞社勤務ということで得意になって他の人の原稿にバッサバッサと手を入れていました。
 心がけていたのは三十年後も役に立つ本。「○○年生まれ、代表作は**、$#な演技で定評」という感じ。当時別の出版社から「子供を見つめるアンディーの目が素敵~!」という調子満載のミーハー本が出ていて「ワー、キャー!まみれじゃん。あんな本、すぐに消えるわ」と本気で思っていました。
 香港映画ブームもあって私たちの本はそれなりに売れ、次々と出版企画も持ち上がりましたが、私の文章は相変わらず「○○年生まれ、代表作は**、$#な演技で定評」という例の調子。
 ネタもすぐに尽きるし、何より書いている私自身が面白くない。他社の本もどこかから写してきたような誰でも書けるデータの羅列。
 そのとき古本屋の店頭で手にした雑誌が「市川雷蔵特集」でした。「雷サマ、素敵いー! ○○映画での流し目、イチコロよ!」「刀を振り回しても歌舞伎みたいに優雅、シビレルう!」と、ファンの方の肉声がページごとに、聞こえてくるよう。
 いままでよく思っていなかった「ワー、キャー!」は、当時の雷蔵のどこが好かれていたか、当時のファンは映画に何を求めていたか、映像を見るだけではわからない、貴重な歴史的証言の数々だったのです。
「ワー、キャー!」こそ、後世に残すべき文章だったんじゃないか、誰でも書けるデータなんか書かなくていいのではないか。そして私は心の底で自分の「ワー、キャー!」を書きたかったのではないか。
 雷蔵特集を手に取ったあの日から三十年経ってしまいました。ここ、大阪では家族や友人から遠く離れて、誰にも見られていない解放感でいっぱいです。原稿用紙に筆を下すのは今でも勇気がいりますが、しばらく自分の「ワー、キャー!」を書いていきたいと思います。
〈在籍半年 「文校ニュース」21・8・7〉

はじめてのスクーリング

通教部本科 生姜〈はじかみ〉塔子 (静岡県)

修行の場、信じられる学校

6月27日に、初めてスクーリングに参加した。
 参加する前に夫に言わなければならないという大仕事があった。大阪文学学校に入学したことすら夫には言っていなかった。小説を書くための学校に入学したこと、初めて書いた小説が機関誌に載ったこと、機関誌に載った作品はスクーリングで批評してもらえること、だから、明日の日曜日は大阪へ行くと早口に説明した。一緒に聞いていた娘は「お母さん、すごいじゃん」と言ってくれたが、夫は「それ詐欺だからやめな。あなたの小説はすばらしいです。本にしませんか? 初期費用は30万ですって、金だけ騙し取られるやつ」と言った。
 夫の理解は得られないまま文校に降り立った。そこには、書くことに熱い思いを持っている同志たちが集結していた。年齢層は幅広い。同じ作品を読んでも感じ方や疑問に思うところが違っていておもしろい。私は文学少女でもなかったし本をたくさん読んできた方でもないので感想を求められても深いことが言えず、とにかく緊張していた。もっといろんな作品を読んで批評する力もつけなきゃと思った。周りのみなさんの堂々と批評する姿に圧倒された。作品の印象から勝手に作者を女性だと思っていたのが実は若い男性だったり、その反対に男の子目線で書かれた作品の作者が中年の女性だったりするのもおもしろい発見だった。
 私の作品の番がきた。わたしの作品は1話完結ものではなく、長い物語の初めの部分だけを書いたものなので物語が展開していない。主人公二人の出会いの場面で終わっている。そのため、読み手に消化不良を起こさせたようだ。好意的な言い方だと「物語の続きを読みたい」だが、ほとんどは、厳しい批評だった。タイトルと文が合わない、タイトルからもっとポップな作品だと思ったが意外、登場人物のうつを患っている女性とアイドルがそれらしくない、平坦だ、通俗的、病気や病名はデリケートな問題だから曖昧にした方がいい、エンタメでも基本的な部分はしっかりと書くべきで誤解を生む表現はよくない、指示語が多すぎ等々、思いもしない方向からの批評を頂戴した。初めての小説が機関誌に載って有頂天になっていたが一気にぺしゃんこになった。ここは修行の場だと思った。でもここに居たいと思った。
 帰宅して夫に報告した。
「ちゃんとした学校だったよ。ほめられもしなかったし、本にしませんかも言われなかったし、30万も要求されなかった。信じられる学校でしょ?」
〈在籍半年 「文校ニュース」21・8・7〉

特別講座に参加して

通教部研究科 川端豊子 (兵庫県)

抵抗。空想と現実。

講演の中身はすばらしいものだった。インタビュー形式で行われたが、文校でも初めてのズーム講演とあって色々制約もある中で、小川さんは視聴者の期待を十二分に汲み、痒いところに手が届くような応答をしてくださった。
 わたしは講演の最中メモを取っていないので、小川さんの言葉を記憶している範囲で書き記します。だから小川さんの言葉は、記憶の曖昧さや無意識の主観的な色づけを纏っているということをご了解頂きたい。
 冒頭に話されたエピソードがその後の話を牽引した。小川さんは昨年の秋に首と肩を痛めた。原因は、直前に歯の治療をしたことだ、と小川さん自身は思っていた。一軒目の病院に行ったが治らないので、何軒も病院を回ることになった。最後に行った所(病院ではないようだ)で言われたことが、治癒につながった。何を言われたかと言うと、「歯の治療が首の痛みの原因だと思っているが、それはきっかけではあったかもしれないが原因ではない。今までのいろんな疲労やストレスなどが積もって首の痛みへとつながったのだ」ということだった。その解釈が心にストンと落ちたようで、小川さんは納得した。原因を探すより、溜まった疲労が首に痛みをもたらしたという物語が、小川さんを救った。そして文学も同じだ、と言う。物語を通して文学は人に働きかける。著書でも書かれているが、人は現実を受け入れるために物語を必要とする、と。
 その後も興味深い話が続いたが、「密やかな結晶」について外国の記者によく訊かれる質問が紹介された。それは「島の人たちはなぜ、抵抗しないのか」というものだ。小川さんはいつも次のように答える。「記憶を失っていく『私』は『おじいさん』の協力を得ながら、記憶保持者である『R氏』を秘密警察に見つからないように匿う。これは彼女たちの抵抗だ」と。この話を聞いて、正面からはむかって戦うことばかりが抵抗ではない、ということにわたしはあらためて気がついた。『R氏』を匿うことは命がけのことだ。命をかけても記憶を守ろうとするのは、権力者への大いなる抵抗だ。そう言えば、小川作品の登場人物はひっそりとではあるが、どこかしたたかに、自分の生き方を貫く人物が多いように思う。
 最後に、小川作品は「リアリティの中に空想や幻想的な要素が入っている」というように言われることがあるが、小川さんは「現実からかけ離れた空想を書いているのではない」と言う。現実に存在する人の中には、現実離れしたところのある人を見かけることがある。自分の周りを見回しても、近所の人や親戚の中に一人ぐらいは変な人がいるものだ。彼らは、「そんな人は世の中にいないだろう」と思うような特徴をもっている。一見普通に見える人だってきっと何か変な癖のようなものをもっていると思うが、それを上手に隠して生きている。それを隠しようもなく生きている人を「不思議な人」と呼ぶのだが。だから小川さんは、「何もないところに空想だけを作り上げているのではなくて、現実に根ざして書いている」と言うのだ。
 話している最中にときおり髪を触りながらひと言ひと言言葉を選んで話しておられる様子が印象的だった。考えている間にちょっとした「ま」ができることもあったが、言いたいことを中途半端なところで断念したり、ごまかしたりすることがなかった。最後まで正面から問いと向かい合い、最良の言葉を見つけるための努力を怠らない小川さんの姿に、わたしは感動した。講演が進むにつれて、聴衆の中の小川さんへの信頼は確たるものとなり、言葉の途絶えた「ま」も、安心して、期待をもって待つことができた。そして最後まで、小川さんは私たちの期待を裏切ることはなかった。
〈在籍八年半 「文校ニュース」21・4・5〉

学生委員会の活動

21年度春期学生委員長 上田 雄己(夜間部研究科)

大阪文学学校には、学生委員会があります。
 学生委員会とは、一言で説明すると中学・高校における生徒会のようなものです。隔週月曜日の夜に学生委員が集まり、委員会活動について議論を深め、より良い文学学校にしようとしています。文学学校の学生は社会人が多く、必然的に学生委員も社会人が多いです。
 学生委員会がいつできたのかは分かりませんが、あるチューターにお聞きすると、四十年前も学生委員会は存在していて、そのチューターも委員会活動をされていたとのことです。いったい、文学学校に何のために学生委員会があるのでしょうか。その理由は私にははっきりと分かりませんが、文学学校という場所を思えば考えつくことがあります。
 これはどこかで聞いた言葉ですが、印象に残っているものがあります。「作家になるための英才教育はない」

「書く力」を伸ばしたくて入学された方がほとんどだと思います。この入学案内書には、「書く・読む・聴く・対話の学校——いま、文学の森へ!」と書かれています。文学学校が独特なところは対話にあるのではないでしょうか。他者の意見や見方を知ることに加えて、人間同士が関わっていくうえでの肌感覚も重要だと思います。学生委員会には他者がいます。多くの人と接点をもつことで、自分の考えを創り上げていけるのではないでしょうか。
 ただ、委員会活動や人と交わることで「書く力」が伸びるのでしょうか。それは、私には分かりません。
 一つ言えることがあるとすれば、学生委員会に入ってからは濃密な時を過ごせた、と私自身は思っています。大切なことは言葉で言い表せない気がします。
 皆様、是非とも学生委員会にお越しください。きっとクラスや世代を越えての出逢いや発展があることでしょう。

 学生委員会は三つの部門で成り立っています。
◎在特部・・・・・・学生が学生の作品を選考し学生で編集して、樹林「在校生作品特集号」を制作します。
◎イベント部・・・文学散歩、夏季合宿、文学集会(文化祭)等のイベントを企画します。コロナ禍ならではの企画も行っています。
◎新聞部・・・・・学生新聞「コスモス」を発行します。

委員会は、隔週月曜日の夜に開催致します。月曜日の夜に都合のつく人は、是非ご参加下さい。

うちのクラスは
こんなんやで

前田寛昭(71歳)

昼間部本科/小説(夏当紀子クラス)

毎週金曜日の午後二時、年金生活の暇人間には生きがいタイムのスタートです。私のクラスは、三十代から七十代まで各年代を代表するような男女十三名のメンバーです。私のようなリタイア組も居れば、現役で働きながら通う人、子育てや主婦の合間に通う人、コロナ禍でリモート参加の方もいます。個性あふれる軍団がチューターのもと約三時間半のバトルを繰り広げるのが合評です。メンバーが提出した作品を、十二人がそれぞれの視点から褒めたり貶したり、賛辞を贈ったり改善点を指摘する時間です。モノを書くことに人生の貴重な時間を投げ出す覚悟で文校の門を叩いた人たちです。各人の個性がぶつかり合う危ない場面もあります。年代の差、生まれ育った環境の違い、それぞれが抱える葛藤苦悩が、作品を書いた側からも、作品を読む側からも滲み出る時間です。私自身も二度作品を提出し、合評を経験しました。その前日の緊張感(実は不安)、合評を受けた夜の高揚感(実は脱力感)は、久しく忘れていた感覚でした。サラリーマン人生を四十年以上続け、色んな場面に立ち会ってきました。顧客との大きな契約に繋がる案件、会社の役員向けのプレゼン時に味わった緊張感、高揚感を思い出したのです。
 合評後は有志によるお茶会です。世間話もしますが結局は文芸論になります。皆が期するところは、自分が書いた作品を多くの人に読んで貰いたいという一点です。色んな人から刺激を受け、それを糧に自分自身の作品作りに生かしたいという思いが伝わる心地よい時間です。私は文校に通う以前、小説を書いたことも、作った作品を誰かに読んで貰った経験もありません。残りの人生で新たな目標が見つかったのです。目指すものが何か形になるのか、ただのトライで終わるのか、今はわかりませんが、人生最後の挑戦になるはずです。

うちのクラスは
こんなんやで

鶴鶴天〈つるつるてん〉

夜間部本科/小説(西村郁子クラス)

西村クラスには十五名が在籍しています。なんと、全員が人間です。
 しかしメンバーそれぞれの出自たるや、驚くほど異なっています。だってあなた、中学生と八十代の方が平等な立場で作品に挑み、同じ語気と同じ姿勢で批評し合う空間なんて信じられますか。私は信じられません。
 入学金を振り込んだとき、文学学校なんて変人で溢れ返っているのだろうと思い込んでいました。しかしそんなことはなく、みんなごく普通です。ごめんなさい、ちょっと嘘をつきました。変人ではありませんが、全員が個性的です。しかしそれは確実な人生経験に裏打ちされた個性であり、要するに見栄ではないのです。
 新聞社や広告会社に勤めている方がいます。弁護士だったという方もいます。海外経験が豊富な方も大勢います。劇団員、公務員……挙げていけばキリがありません。つまらない人生を歩んでいる人は一人もいないと、作品に接すればわかります……いや、わかる気がします。
 そういった面々がそれぞれの知見を駆使して小説を書いてくれます。しかも、小説を読んでくれます。楽園です。
 書き方にも人となりが出ます。一つの文章を丹念に練り上げる方、シンプルながらも超然とした凄みを出す方、資料を徹底的に調べて書く方、誠実さが滲み出ている方……。
 もちろん読み方にも、出ます。異なる意見や気付きに触れられるのは本当に幸せなものです。そして文学学校ほど、それに適した場所は他にないのではないでしょうか。
 私は私と異なる経験、作風を持つ人全てを尊敬します。
 西村クラスには約十五名が在籍しています。なんと、全員が尊敬に値する方々なのです。