在校生の作品

短編小説「雑草ガーデン」

垣江 みよ子
(通教部専科小説クラス/大津市/79歳)

アパート暮しをしていたサチ子とぼくは結婚十年目に新築のこの家に越してきた。もう四十代になっていた。新しい家には一台分の駐車場にくっついて一坪くらいの庭がある。引っ越し騒動が一段落した頃、サチ子はガーデニング雑誌を買ってきた。休日になるとその雑誌を広げて「どんな庭がいい?」と訊ねながらページをくる。シックな配色の幾何学的花壇、バラのアーチから玄関に続く花いっぱいの小径、生垣の前に咲きほこる大小のチューリップ。雑誌に出ている庭はぼくたちの小さな空き地には華やかすぎる気がした。
「どれもきれいだけど、うちにはもっとおとなしいのが合うんじゃない?」
「たとえば?」
「たとえば……。そうだなあ、野草はどう? 野草というより雑草」
 思い付きでいったにもかかわらず、そのときぼくの頭にはもう雑草ガーデンという呼び名まで浮かんできた。
 じつは大学生のときに植物採集という課題があり、一年間ポケットの中にルーペを持ち歩いていたことがある。ルーペでみると、雑草は栽培種に劣らず美しく精巧にできていた。
 雑草ガーデン。ガーデニング雑誌をコピーしたような近隣の庭よりずっとかっこよくて個性的だ。
「雑草で庭がつくれるのかしら」
 ぼくは庭つくりにそれほど情熱があったわけではないのに、懐疑的な様子のサチ子を前にすると説き伏せずにはいられなかった。雑草の花をよく見たことがある? とっても可憐できれいだよ。しおれる事は滅多にないし、枯れても見苦しい姿にならない。自然に生える雑草なら必ずこの庭の土に適している。手をかけなくても季節にふさわしい庭になる。
 ぼくは確証のないままに思いつくことを並べたてた。サチ子は黙って聞いていた。
 しばらくしてサチ子は「四季の山野草」という本を買ってきた。その表題をみて思った。雑草と野草に違いはあるのだろうか。ネット情報を覗いてみる。そこでは同じ植物でも人間の都合で雑草と呼んだり野草と呼んだりする、という見解が大勢を占めていた。
 次の日曜日。
「野草ってよくみるとすてきね。気品がある」
「だろう?」
 これがサチ子のいいところだ。ぼくのセンスを受け入れて短い間に自分のものにする。
「野草と雑草って同じでしょう?」
「人間に都合がいいときは野草、邪魔になるときは雑草になるらしい」
 仕入れたばかりの知識を披露する。
 苗を買ってきて植えるというわけにはいかない。雑草ガーデンがその姿を整えるには時間がかかった。勝手に生える雑草を完全に手付かずにすることはさすがにできず、背の高くなるものはできるだけ庭の外縁に寄せるか抜くかした。
 新しく庭をつくっていると、近隣の人が自分の庭からいろんな植物を分けてくれようとする。欲しいか、と訊ねてくれればいいのだが、いきなり株を持ってくる人がいる。さらに留守の間にアジサイの株を植えて行ってくれる人までいた。そうなると、ぼくの設計図(といえるほどのものはないのだが)を修正しなければならない。そのうち雑草を抜いてくれる人が現れるかもしれない。
 妥協のすえ、庭の外縁にツツジとアジサイとホトトギスとクリスマスローズが植わることになった。この段階で、ぼくたちは庭を訪ねてくれる人に雑草ガーデン計画を打ち明けることにした。サチ子は「せめて野草ガーデンにしない?」といったが、それではインパクトがない。絶対に雑草ガーデンだ。計画を聞いた人はみんな「へえー」という顔をする。隣のおばあさんからは、
「そういうことならご近所にちょっと声をかけておいた方がいいですよ。雑草の種子が飛んで行くかもしれないし」
 といわれた。
 それを聞いたぼくの中に、「野草ガーデン」だったらこんな苦言は来なかったかもしれない、という思いがよぎったが、いまさら前言を翻すことはできない。雑草ガーデンだ。サチ子はさっそく菓子折りを持って両隣に詫びを入れに行った。他人と違うことをしようとすると、何らかの圧力が返ってくるのは仕方がない。サチ子にはもっと堂々としていてほしい。
「謝ることはないんじゃないの? 前の児童公園にも雑草はいっぱい茂っているよ」
「まあね。でもそれがおつきあいってものらしいから」
「そんなのぼくなら無視するけどなあ」
「私はあなたじゃないから、そういうわけにはいかない」
 私はあなたじゃない? サチ子からそんな強い言葉を聞くのははじめてだ。ぼくは胸のうちに動悸を感じながらも次にいうべき言葉を思いつかなかった。

 サチ子は雑草ガーデンに根気よく手を入れ続け、「私はあなたじゃない」とは二度といわなかった。そしてぼくは仕事に時間を取られることもあって、口だけ出して手は出さない監督者になっていった。
 サチ子が世話する雑草ガーデンは、何年にもわたってぼくたちの目の前でダイナミックな生態を展開していった。雑草にも生存競争がある。なにがカギを握っているのかわからないのだが、ある年にシロツメクサに覆われていた一角が次の年にはカタバミに取って代わられていたりする。強いものがいつまでも強いわけではないらしい。まるで庭が自律して生きているかのようだ。
 かれんな黄色い花の後に赤い実をつけるヘビイチゴも生命力旺盛だ。放っておくと、歩くために敷いたウッドタイルを覆いつくす。サチ子は、ウッドタイルの周囲は小さな草もこまめに抜いて、タイルの形を浮き出させた。家の外壁沿いも同じようにして土との境界をくっきりさせた。たとえ狭い面積でも手を入れなければ「ガーデン」にならないことがぼくにもわかってきた。
 雑草ガーデンは虫ガーデンでもあった。夏に生い茂っていた草むらが秋には風通しのよい茎だけのかたまりになっている。蝶の幼虫に葉を食い尽くされたのだ。サチ子はミミズにもトカゲにもカマキリにも嫌悪を示さず、「うちのトカゲ」などと可愛げに呼ぶことさえある。
 近くの池からホテイアオイを採ってきて草むらに置いた水盤に浮かべたことがあった。あるとき、サチ子がホテイアオイの陰にカエルをみつけてぼくを呼びに来た。近づいてのぞき込むとカエルはしばらくじっとしていたが、急に水盤を跳び出して草むらに隠れてしまった。
「びっくりさせたかな」
「また帰ってくるかも」
 サチ子は残念そうな様子で自分に言い聞かせていた。翌日、カエルは水盤に戻っていた。毎日水盤を覗いていたサチ子によると、カエルはどうもそこに住みついているらしい。ときどき外出し、いつのまにか水盤に戻っている。ぼくたちの雑草ガーデンは生命の住処だ。そしてサチ子の姿かたちもだんだんと雑草ガーデンに住む人らしくなっていった。若い頃には頻繁に美容室に通ってショートカットの髪にウエーブをつけ、顔には薄化粧をしていたが、いまは腰まで届く長い髪を無造作に一本の三つ編みにして日焼けした顔をほころばせる。

 半年前まではそうだったのだ。
 あるとき、ぼくはサチ子が自分の持ち物を減らしはじめたことに気づいた。すこしずつではない。公民館でバザーが開かれるたびに、物がドサッ、ドサッと減っていく。料理の本も草花の本も昆虫の本も野鳥の本も。旅行先で買って気に入っていた帽子やスカーフやバッグも。ぼくはいってみた。
「思いっきりがいいね」
「ちょっと早いけれど終活です」
「早すぎるよ」
「できる時に できる事を 全力で。あなたのモットーでしょ」
 なにかの折にぼくがサチ子に向かっていった言葉だ。あれはいつだったか。サチ子のスローペースにいら立ったときだった。でもなんだったんだろう。思い出せない。
 花が落ちてしまったホトトギスを根元まで切ったサチ子。今度は、茂りすぎたジャノヒゲの前に立って思案顔だ。ジャノヒゲの根は土の中で密に絡み合いつながり合って大きなシートをつくってしまい、ちょっと引っ張ったくらいでは抜けないのだ。サチ子が鍬を持ち出すのを見てぼくは庭に下りていった。サチ子はその場をぼくに明け渡して見物にまわる。鍬で根を起こし、浮いた端を持ち上げて力を入れて上に引っ張る。玄関マットくらいのジャノヒゲシートがはがれ、青い実がいくつかころがり落ちた。ちょっと得意になってサチ子をみる。笑顔をつくっているが、サチ子の顔面は蒼白だ。ぼくが近寄ると、ふーっと倒れ込んできた。

「病院にはいかない」
 生気を取りもどしたサチ子はいった。ぼくが問いつめると、ときどき立ちくらみがあり、下血があるという。痛みはどこにもないらしい。
「診てもらったほうがいいよ」
「行きたくない」
「ぼくも落ち着かないよ」
「そうなの?」
「当たり前だろ? 診断だけでも受けよう。それからどうするか考えよう」
 翌々日、ひとりで行くといって支度をしているサチ子にぼくは強引に付き添った。でもぼくにできたことは緩和ケアを受ける手続きをすることだけだった。
 サチ子はまるで紅茶にするかコーヒーにするかを選ぶかのように、「積極的治療をしない」を選び同意書にサインした。「お気持ちが変わったらいつでも連絡して下さい」という医師に笑みをうかべて「はい」と答えて頭を下げた。
 受診以降、ぼくはサチ子の様子に注意をはらうようになった。サチ子の部屋を改めて見まわすと、本棚からは本が消え、その後に雑草ガーデンで撮った写真が並んでいる。フレームに入れず、一枚一枚に小さなクリップのようなものを付けて無造作に立ててある。スマホの中に撮りためていたものをプリントしたのだろう。サチ子はこれまで庭の草花についてぼくにあれこれ語っていた。それなのにぼくはその多くを聞き流していた。
 いま写真を一枚ずつみていると少し記憶がよみがえる。
 ヒメオドリコソウ(ほら、編み笠をかぶった女の人が踊っているようにみえるでしょ?)、スミレ(種類が多いみたいだけれど、うちのはどれかなあ)、ハナニラ(わかった、わかった。これはハナニラだ)、スズメノカタビラ、ヘビイチゴ(食べてみた。なんの味もなかった)、ホトケノザ。
 草花に混じって虫や小鳥の写真もある。シジュウカラ、スズメの群れ、トゲに覆われた緑と黒の幼虫、キセキレイ、ウグイス、カタツムリ、クモの巣、緑色のカマキリ、茶色になったカマキリ、ヤモリ、ひと夏だけぼくたちの庭で暮らしたカエル。
 秋が深まると道路を隔てた児童公園の木々から大きな葉がつぎつぎ舞い落ち、家の前の溝にたまる。溝を掃除すると、死んだカマキリや死んだハチも乾いた落葉と一緒に掃き集められる。サチ子は落葉の中から虫の死骸をつまみ出して庭に埋めている。そして寒くなった庭で一日の多くを過ごし、淡々と身辺整理をする。
 半分ずつに分け合って使っているぼくたちのクローゼットに、サチ子の洋服の掛かっているハンガーはもう少ない。外出に着ていたスーツもコートもジャケットもない。
 雑草ガーデンでは植物の攻防が続いている。ホトトギスが刈り取られた後はヒメツルソバの独り舞台だ。ピンク色の小花が集まって金平糖のようにみえる集合花をたくさんつけて華やいでいる。庭の中央付近では、夏に大きな葉を茂らせていたシロツメクサが今は赤ちゃん返りをしたかのようにちいさくなって土に張りついている。

『樹林』2020年2・3月合併号(通教部作品集)より再掲

作品寸評

 主人公が提案した「野草ならぬ雑草」を茂らせた庭の描写がいい。また、その庭にやってくる虫や爬虫類もいい。せっかくいいのだから、より具体的に描けると、さらに奥行きが出ただろう。また、庭をめぐるやりとりからぼんやりと夫婦の関係も伝わる気がする。
 後半、妻のサチ子が病を得るのだが、そこから先の展開がかなり急いでいるので、加筆してほしい。
(大沢綾子)