在校生の作品

エッセイ「鯉になった父」

石橋 純代(いしばし・すみよ)
〔通教部専科/エッセイ・ノンフィクションクラス〕

私の父のことを書きたいと思う。書くことで、父との間の未消化な部分が少しでも解消され、見えてくるものがあればと淡い期待を抱いている。
 父とのことで覚えている最初のころの記憶は、私が三歳か四歳のとき、両親と二つ下の妹の四人でどこかへ出かける道すがら、父と母が口喧嘩を始めたことである。怪しい雲行きに、私は不安になった。父は怖い顔をして、怒りながら何か言い、歩いていた方向とは反対の方へ行ってしまい、姿が見えなくなった。私は母の手をぎゅっと握りながら、父に見捨てられたように感じ、もう父は帰って来ないのではないかと思った。そのときの恐怖感は今でもよく覚えている。
 当時、私たち家族は天王寺駅近くの小さなアパートに暮らしていた。父がなんの仕事をしていたか分からないが、昼間は家にいて、押し入れの中で寝ていた。玄関入ってすぐ左に台所とトイレがあり、その奥に小さな部屋が一つだけ。狭すぎて、寝る場所がなかったのだろう。幼かった私は、押し入れは寝る場所だと長い間思い込んでいた。
 昼間、寝ていた生活のためか、私は父と遊んでもらった記憶はない。しかし赤ちゃんだった私を抱いて笑っている若かった父の写真を見ると、可愛いと思ってくれていたのかなと少し安堵する。
 父は同志社大学四回生の就職活動の際、東京の貿易会社の面接を受けたが落とされ、とてもショックを受け、挫折感を味わったそうだ。ほかの会社は受けずに、好きなロシア語を学んでロシアに行こうと思い、東京のロシア語の専門学校に入った。しかし、当時のアメリカとロシアの関係悪化などが影響し、ロシア行きは叶わなかった。
 それからは牛乳配達をしたり、トラックを買って魚の卸売りを試みたりしたらしいが、どれも続かなかった。結局、中央市場で魚を仕分けたり、配達したりする力仕事に落ち着く。
 父の実家は兵庫県の和田山という山以外なにもない田舎で、姉、父、妹、弟の四人兄弟。その中で一人だけ大学を出してもらったのに、きちんと就職をしなかったことで、ほかの姉弟は不満があったようだ。父は母と、一、二回会っただけで、次は結婚式という見合い結婚。当時は親が結婚を決めるので、それが当たり前よ、と母は言うが、私にとっては、信じがたい話だ。
 私が、五歳のとき、天王寺から同じ環状線の天満駅に程近いマンションに引っ越した。前の家より広くなり、やっと一息つけ子供心にも嬉しかった。私は第二次ベビーブーム真っ只中に産まれた。両親と子ども二人という核家族が新築マンションを求める時期と重なり、うちも例外ではなかった。大阪駅から一つ目の天満は便利が良く、人気があり、マンション売り出しから三十分で完売。母が申し込みの電話をしたときは、すでに売り切れでキャンセル待ちと言われた。空きが出たと電話があり、見に行きもしないで即決したという。父は家のことなど、関心はなく母が良いようにすればいいという感じだったそうだ。
 父は家のことや子どものことなど母から相談されても、正面から向き合い自分の思いを伝えたり、一緒に考えたりすることの苦手な人だ。自分に関係する以外のことは、どうでもいいのか、自分の頭の範疇を超えているのか、もしくはなにかアドバイス的なことを言うべきだと思っていて、でも言えないので、「しょうもない」などと言って話をそらすのかよく分からない。そのようなので、母は父に聞いたり、相談するのは早々諦め、なんでも自分一人で決めてきた。父と母の会話らしい会話を聞いたことがなく、私は育った。
 父の関心のあるのは食べることと飲むこと、それに競馬。お風呂が好きで、昔は毎日銭湯に行っていた。毎日同じことの繰り返し。自分のペースを守ることがなにより大事なので、日曜日も家族一緒にどこかへ出かけたことがない。母は料理が上手でなかったから、そのことで母をよく怒鳴っていた。母は七人兄弟の末っ子で、なんでも上のお姉さんやお兄さんが口も手も出してくれた中で育ったので、どこか受け身的なところがあり、気が付かない。そこが父の癇に触り、夫婦仲はずっと悪く、冷え切っていた。二言目には、「七人兄弟の末っ子で全然気がきかん」とよく怒鳴っていた。母も好きで末っ子に産まれたわけじゃないのに、なんでそんなことをいうのだろうと思った。父はいつも夕食を自分の部屋に運び、一人で食べていた。ふすまをピシャッと閉める音が冷たく響いた。四人で一家団欒なんて、夢の話。それでも子どもだったので、自分の家の中しか知らず、ほかの家も同じようなものだろうと思っていた。
 日曜日の朝によく二人は口論し、母は怒鳴られたり、叩かれたりしていたので、妹と二人で部屋の隅で泣いていた。母がどうなってしまうか心配で、目が離せなかった。父が朝から家にいる日曜日が大嫌いだった。二つ下の妹は知的障害があり、特別学級に在籍していた。純真無垢で可愛かったが、対等に話はできないので、家族の中で私の話を聞いてくれるのは母だけ。その母も妹に手がかかったので、私はわがままも言わず、無意識に随分我慢していたと思う。自分でそのことに気付いたのは、私が結婚してからだ。
 最初の違和感は、長男が産まれ一歳を過ぎ少し落ち着いたころ。子どもも順調に育ち、夫も優しく育児もしてくれる。自分の育った家庭と比べると、拍子抜けするほど、なにも困ったことがない。自分が子どもを持って、こんなことをしてあげたい、これはしたくないなと思ったときに、私の両親は子どもの気持ちに無関心で配慮がなさすぎではなかったかと疑問が生まれた。せめて日曜日の朝くらい、子どもの前でひどい夫婦喧嘩をしないでほしかった。そして父がもし話に耳を傾けてくれる人であったら、母と私と三人でもう少し楽しく過ごせたのではないか。妹も会話には入れなくても、そんな雰囲気を喜んだのではないか。
 でも実際は、話ができるのは母だけ。そんな母も妹に手がかかり、二人はいつもセットだった。私は母と手を繋げず、一人で歩いた。自分の家庭を持ち、こんなふうに自分の育った境遇に疑問と怒りに近い気持ちになるなんて、思いもしなかった。子育てをする過程では自分の育った環境や育てられ方を無意識に思い出したり、比較してみることも多く、改めて、生い立ちは大事だと感じる。今は優しい夫や子ども達がいて、幸せだなと素直に思える。
 父について語るとき、切っても切り離せないのはお酒だ。アルコール依存症である。父はひとり暮らしを始めた大学生のころからお酒を飲み始め、以来ずっと切れたことはない。三十代、四十代の働き盛りのころは、朝十時ころ、中央市場から帰って来たらすぐに台所に行き、日本酒をグビッと口にした。そして、お酒の入ったコップはそのまま食卓に置かれっぱなしで、通りすがりに飲んでいた。昼食、夕食のときはビール、ウイスキーをお茶代わりのように口にした。それでも肉体労働なので、消化されていたのか身体は元気。仕事は真面目に頑張っているので、母もなにも言わず、酒代を渡していた。家で飲まないのは寝ているときだけで、それ以外はいつも酔っ払っていた。酔っ払うと、歌を歌ったり陽気になるが、そのうち意味の分からないことを言い出し、母の悪口や不満をぐちぐちと言う。
 人と会う前にも、グビッと飲まないでは会うことができなかった。過剰過ぎるほど人に気を遣い、なにかしゃべらないといけないと思うのか、その場にそぐわない変なことをいってしまう。初めての挨拶に夫がうちに来たときのこと。彼の仕事について、父はとくに興味もないのに聞かないといけないと思ったのか、どんな仕事をしているのか聞いた。彼は焼却炉を設計したりする仕事をしていて、その説明をしたが、内容がまるで分からなかったらしく、「はあ〜」とため息をつき黙り込んだ。話が続かない。質問してみることもしない。分からないなりに、理解しようとして聞くとそれも相手に伝わり、変な空気にはならないと思うが、まるでちんぷんかんぷんだとそれも相手にはなんとなく分かってしまう。彼は一生懸命に話したのに、父の反応がよく分からない。無理に話さなくても、話したくなかったら、話さなくてもいいのに。
 世間体は優しくて明るい真面目な父なのに、余計なものが邪魔をして、父の良さが相手に伝わらない。
『「普通がいい」という病』(泉谷閑示・著)という本の中で酒乱についてこう書かれている。「これは、酔って暴れたり、暴言を吐いたりしている時だけが異常なのだと思われがちですが、問題の中心は、むしろ素面の時にあるのです。酒乱になってしまうのは、素面の時に人に気を遣い、腰の低い人の場合が多いのです。つまり、本来のパーソナリティに対してかなり窮屈な抑制をかけて、普段の自分をこじんまり作ってしまっている。素面の時に『感情の井戸』のフタを強く押さえつけているわけです」この文章を読んだとき、これは父のことだ、と思った。人に気を遣いすぎて、自分が思ったことを自然に口に出すことを抑制している。だから、人となんでも思ったことを伝え合う対話ができない。自分の子どもとだってできない。自分を抑制してしまう原因はなんなのか。育った環境なのか、もともと持っている性質なのか、それともなにかきっかけがあってそうなってしまったのか。亡くなった今となっては、それも分からない。
 対人恐怖症といえるくらい人と対することに緊張感を伴ってしまう。人とのつながりを求めているのにうまくつながれない。父は寂しかったのだと思う。私も、父の思いや考えを聞いたり、聞いてもらったり普通に話がしたかった。今思えば、それが一番父としたかったことだ。そんな父もお酒の飲み過ぎから肝硬変になり、二ヵ月半入院し、先月(二〇二一年十一月)七十九歳であっけなく旅立った。
 亡くなる三ヶ月前に実家に帰ったとき、いつもどおり酔っ払っていた父が、私をいつになく愛おしそうな目で見ながら、「さわりたい」と言った。そして両手で私の顔をはさみ、ごしごしと撫でてくれた。私はそのとき、初めて父に親らしいことをしてもらったなと思い、なんだか嬉しくて涙が止まらなかった。最後に父と良い思い出ができて、良かったと思う。
 それから亡くなって一週間が経ったころ、私は家の近くの武庫川べりを一人で歩いていた。父の和田山の実家の近くには大きな川があったからか、父は川が好きだった。私の子どもが小さいころ、この武庫川に魚釣りに一緒に来たなと思い出していたら、大きな黒い鯉が突然目の前に現れた。「パパだ」と思った。すると「話を聞いてやらんで、ごめんな」という父の声がふと聞こえた。この世では分からなかったけど、あの世に行って、やっと気付いてくれたんだねと思った。不器用な父らしい。

《通教部/21年秋期第2回提出作品》

作品寸評

 作者の石橋純代さんは兵庫県在住の40代後半で、通教部のエッセイ・ノンフィクションクラスで学び書くことまる2年。年4回の作品の締切時には必ず提出していて今までに、コロナによる自粛生活、自宅駐車場の木の枝に巣食うメジロの親子、40歳になってからの保育士免許への挑戦、大学生から中学生までの我が子・男女4人の生育にまつわることなどについて描いてきている。担当の音谷健郎チューターから「深み厚みを出すためには枚数を増やしてほしい」という助言を受け、最近2回の作品は、4百字詰めで10枚を超えるようになった。
 そして対象も、今までの7作には全く登場していない“父”のことに踏み込んだ。〈私〉が子どものときにみた父は、中央市場で力仕事をし、昼日中から酒浸りであり、押し入れに寝込む。母へ暴言を繰り返し、子どもにも無関心である。世間の父親もそんなものかと思っていたが、実際に結婚し家庭を持ってみると、「自分の育った境遇に疑問と怒りに近い気持ち」がわいてくるのである。
 だが結末で、亡くなる3カ月前に父は、<私>に対して思いもかけない行動をとった。口で詫びるのでもない。手を握りしめるのでもない。頬ずりでも抱擁でもない。荒々しく「両手で私の顔をはさみ、ごしごしと撫で」たのである。肉体労働で身を立て、他人とうまくつながれず、過剰に気遣いしてきた男の、それまでの人生がいっぺんに浄化されたような姿を、みごとに現出させた。
 作品の上で改善すべき点をふたつ。セリフや人物の動き、周りの情景を描きこむことによって、エピソードのいくつかを場面化してほしい。もう一点は、これこれの事柄はいつの時点のことなのか、過去の時間の流れの中でもっとはっきりさせてほしい。
(小原政幸)