在校生の作品

エッセイ「土産石(みやげいし)」

大土 由美(おおつち・ゆみ)
(通教部本科/詩・エッセイクラス)

北九州というと、九州の北部のことと思っている人も多い。北九州は福岡県北九州市のことで、一九六三年に、八幡、小倉、門司、戸畑、若松の五市が合併して出来た百万人の政令指定都市だ。私はその北九州市に、生まれてこの方六十七年間、ずっと住んでいる。
 生家は、小倉に近い八幡東区竹下町という古い住宅街だ。私はそこに、十五歳まで住んでいた。この竹下町あたりは、戦前から、社宅だけでは補い切れなかった、官営八幡製鉄の労働者家族のために、借家として建てられた家が多い。
 一九四五年八月八日の八幡の空襲で製鉄所に近い中央町や祇園町は焼け野原になったが、幸運にもこの古い住宅街は戦災を免れた。
 もし、翌日の八月九日、小倉の陸軍造兵廠に原爆が予定通り落とされていたなら、造兵廠に近い竹下町も焼けて無くなっていたに違いない。その当時、八幡国民学校の教員をしていた母も即死だっただろう。そしてもちろん、昭和二十八年、戦後生まれの私は、この世に存在することすら無かったのだ。
 その竹下町の二軒長屋の小さな生家が、戦後七十五年も経ったというのに、ほぼ昔のままの姿で、建て替えや取り壊しも無くまだ健在なのが不思議だ。しかも、その付近一帯、六軒の一区画が同じように、残っているのだ。周辺はさすがに、建て替えやリホーム、空き地を駐車場にしているところもある。昔の住宅地で道幅も狭く、何処の家も駐車スペースが無いので、取り壊した後、数軒分の駐車場として貸し出している所もある。
 なのにここの六軒は、住人がいる。しかも三軒の家の家主達は、当時住んでいた子世代孫世代に当たる人達なのだ。田畑のある田舎家ならともかく、町中の借家では珍しいことだ。人の話では、ここの地主が気難しい人で、土地を売らないからという説もあるが真相は定かではない。
 とにかく、玄関のある狭い路地は未だに砂利土がむき出しで、塀に沿って雑草が繁茂し、二軒続きの長屋が三つ仲良く残り、まるでタイムスリップした昭和、NHKの朝ドラに出てきそうな空間なのだ。
 今でも私は近くを通った時は、必ず立ち寄り、車から路地奥をこっそり覗き見る。そこには懐かしい昭和の玄関、格子と磨りガラスの引き戸の玄関が見える。
 そうすると、五十年前の玄関内が鮮明に蘇る。
 ガラガラと引き戸を開けると、よく踏み固められた黒土の一坪程の土間がある。
 二枚の障子の向こうは、二畳の小部屋で、そこは異母兄弟の十一歳離れた兄の寝間だった。が、その兄が大学進学で家を出てからは、二段ベッドを置いて、私と弟の寝室になっていた。
 土間からの上がり框の下は、収納になっていて、そこに家族五人分の靴を入れていたが、それでは足りずに、隣家との境の壁前に、幅一メートル、高さ九〇㎝、奥行き四〇㎝程の頑丈な杉の引き戸付きの下駄箱が設えてあった。
 その他にも土間には、使わなくなった火鉢の傘立てと弟の自転車も置かれていて、それでなくても狭い土間は、もういっぱいいっぱいだった。
 一番異様だったのは、下駄箱の上に、数えられないほどの石が山積みになっていたことだ。時々、新しい石を上積みしたときに、なだれ落ちて山の形は変わった。子供の私が見ても何の変哲も価値も無い石ころばかりだった。
 大きさは手のひらに丁度収まるくらいの物が多かったが、形は丸く削られたもの、動物の形、尖ったもの、平たい石などあって、色は、灰色、鉄色、黄土色、縞模様などとりどりだった。幾らか価値のありそうなのは、紫水晶の原石ぐらいだった。
 それぞれ石の裏には、地名と日付の書かれた紙片が貼られていた。父が旅行に行った時に持ち帰り、旅先の地名を書き入れて、下駄箱の上に飾ったものだった。
 小学校の教員になっていた母が研修旅行や慰安旅行に行った時は、私は一番に、「お土産は?」と訊く。母は必ず温泉まんじゅうや煎餅などの名菓とこけしなどその土地のお土産品を買ってきてくれた。幼かった私は、長旅から帰った父に母に尋ねたと同じように、「お土産は?」と訊いたのかもしれない。
 いつだったかは忘れたが、まだ私が小学校の低学年の頃だったと思う。「土産たい!」と酔った父が丸い卵のようなつるつるの石を差し出した。すでに父への反抗が始まっていた私は、無言で一瞥しただけだった。
 父は八幡製鉄の労働組合員で何らかの役員をしていたので、交渉や労働争議、他組合の支援活動などで、よく旅に出た。それから、旅するごとに、まさしくその土地土地の「路傍の石」を我が家に「土産石(みやげいし)」としてせっせと運び、下駄箱の上に置くようになったのだ。
 私は、路傍の石を持ち帰る父も、賽の河原の石のように積まれていく石も嫌いだった。
 当時、日本は高度成長期、一九五九年から一九六〇年にかけての三井三池の炭鉱争議など、安保闘争と相俟って、父は忙しそうに飛び回っていた。家にも、客がよく訪ねてきて、昼間からその客達と酒盛りをしていた様子が幼い記憶として残っている。
 旧制玉名中学で野球部だった父は、野球好きだった。
 八幡製鉄大谷球場に野球観戦に付いて行った時のことだ。その日も八幡製鉄の野球親善試合前に、組合のはちまきを巻いて、選手や応援家族の前で、試合に関係のない組合の現状について、長々と演説した。そのことがすごく恥ずかしくて、二度と父には付いて行くものかと、思ったのをよく覚えている。
 何故かデモにも付いて行ったことがある。
 六〇年の安保闘争。「安保反対、安保反対!」と連呼してのデモを「あんぽん反対!」と幼い私は思い違いをした。あんぽんは、あんぽんたんの略で、あんぽんな人、つまり馬鹿な人に反対するのは当たり前のことだと、長い間そう思っていた。だから、弟と喧嘩したときは、「あんぽん反対、あんぽん反対!」と叫んでいたことを懐かしく思い出す。
 酒好き人間好きで、組合活動にも熱心だった父は給料のかなりを交際費で使っていたようだ。ある時は、近所の酒屋で角打(かくう)ちして酔い潰れた父を迎えに行ったことも、宴会帰りに雪道で倒れた父を母と担いで帰ったこともある。そんな父親の醜態を見れば、物心の付いた娘が嫌悪感を持っても仕方のないことだった。
 母は教員で、その当時にしては珍しい共稼ぎなので、普通に暮らせば家計が苦しいはずは無いのだが、いつも我が家は火の車で、給料日の一週間前から急に食卓は貧しくなった。それもこれも酒飲みで、世話好きの父の所為だと思っていた。
 今なら、末っ子のお嬢さんで、お金にも鷹揚で、珍しい物や初物が手に入ったら直ぐに近所に裾分けするような母の経済観念も父と同じようなものだったと分かる。
 しかし、子供だった私の反抗は、その頃からずっと、昭和四十二年十二月十七日享年五十六で父が心筋梗塞で急死する時まで続いた。私はまだ、中学二年生だった。
 父が亡くなった翌年、父の残した退職金で、母の勤めていた小学校の近くに小さな二階家を建てて、竹下町の二軒長屋から引っ越した。
 引っ越しの時、それまで誰も気に留めていなかった父の「土産石」を片づけることになった。
 最後の石山の姿は、四、五〇㎝ほどの高さに達しており、頂上には高さ二〇㎝、幅一〇㎝ほどの少し歪な四角柱の梅花石(ばいかせき)が記念碑のように立っていた。
 梅花石というのは、白い梅の花模様がある珍しい石だ。北九州門司の奇石として古くから知られている。約三億年前のウミユリという生物の茎の断面が化石となり、梅の花のように見えるのだ。父の梅花石にも濃い紫の地に、五つ六つの可愛い梅の花が咲いていた。この梅花石は、門司の友人から貰った石で、父の一番のお気に入りの石だった。
 これを抱えて帰ってきた時の父は、いつも以上に酔っ払い上機嫌だった。
「磨けば、高い値が付く石たい」父は自慢げにそう言った。
 夏休み中の引っ越し当日、私と母はその石を新居に持っていくべきかどうか迷ったが、最後には石の処分は私に任された。
 私は、庭の桜の木の下に、一昨年の夏、父より半年早く亡くなった飼い犬ピスの墓があるのを思いだした。ピスは父が可愛がっていた愛犬で、ピスだけは父によく懐いていた。梅花石は、そのピスの墓標にぴったりな気がした。
 それで、梅の花が少ない梅花石の裏側に、「ピスの墓―昭和四十二年六月没」と、丁寧に太く油性マジックで書き込んだ。
 それから、狭い庭の南西の角に植えられた桜の根元、丸く盛り土された墓に、金(かな)バケツで何回も、すべての土産石を運んだ。私はその石一つひとつを丁寧に円形に並べて、環状列石(ストーンサークル)を作った。円は二重三重にもなった。
 最後に、赤子のように梅花石を抱きかかえ、優しく摩りながら、そのすべすべした感触と重みを記憶した。そして、環の中心にそれを据えた。水を掛けると、白梅はより際だって見えた。
 私はそこで、長いこと手を合わせ、気の済むまで別れを告げた。

《『樹林』2021年7月号(通教部作品集)より、少し字句を修正して再掲》

作品寸評

 作者の大土由美さんは福岡県在住で、今年三月に文校教室でおこなわれた“体験入学”を経て、四月に通信教育部に入学されたばかりの文校“半年生”。数年前から詩を書きはじめているが、本格的なエッセイは初めてとのこと。
 にもかかわらずこの作品は、時代・舞台・人物・題材それぞれの面において、しっかり焦点がしぼられた好エッセイに仕上がっている。今から五十数年前、北九州市八幡の二軒長屋に住んでいたとき、五十六歳で急死した父親を偲んで書かれたものである。大酒のみで世話好き、野球場で選手や観客相手に労働組合のことで演説をぶつ。そんな磊落な父親は、組合関係のことで訪れた先から、「土産石」をせっせと自宅に運びこむ。そしてそれらの石を、玄関土間の下駄箱の上に積み上げていく。父の死の翌年、家族は二軒長屋から引っ越していくのだが、そのとき中学三年で、生前の父親に対して反抗的だった私がとった行動が、「土産石」を介して父親とつながっていくようだった。欲をいえば、「土産石」とりわけ梅花石が今どうなっているのか、知りたいところではある。
(小原政幸)