在校生の作品

短編小説「搭乗前ロビーで」

麦野 あき
(通教部研究科/小説クラス)

福岡空港国内線四番ゲート前のベンチで、洋介はぼんやりと座っていた。電光掲示板には、大阪空港行き四二六便の案内が出ている。二つに折っただけの黒服が、膝の上のナイロンカバーの中で、ふにゃふにゃと納まりが悪い。出がけに慌てて突っ込んだ黒ネクタイが納まりきらず、上着のポケットから飛び出している。出発まで、まだだいぶん時間があった。洋介はネクタイを押し込みながら、二週間ほど前に受けた義兄からの知らせを思い起こした。
「明子の葬式するんや。やっぱりちゃんと、坊さんにお経読んで貰たろう思てな。宙ぶらりんのままやったら、明子もどうしてええや、分からんやろ。お寺も、ちょっとは落ち着いてきたみたいやしな」
 つぶれた本堂の前で炊き出しをするどこかのお寺の映像を、ニュースで見たことがあった。義兄の菩提寺も、被災したのだろう。
「俺もな、古い友達の家で厄介になっとんねや。せやからもう、形だけの事にしよう思てな。あんたと明子は二人っきりの兄弟やし。もし来れるようやったら、来たって」
 姉夫婦に、子どもは無かった。義兄も洋介と同じ、一人ぼっちになったのだ。
 保安検査場の方から、小さな子どもを抱えた母親がやってきた。後ろから、六歳ぐらいの女の子と少し年下の男の子が、手を繋いでついてくる。それぞれ、リュックを背負っていた。母親は洋介に軽く会釈すると、隣の席に腕の中の子どもを降ろした。女の子は繋いでいた手を引っ張って、弟をその横に座らせた。外は良い天気だというのに、赤い長靴を履いている。女の子のお下がりだろうか。
「脱ぐ?」
 と、女の子は尋ね、弟が頷くと、その長靴を片方ずつ脱がしてやる。弟がベンチの奥までお尻をずらすのを見てから、女の子も腰掛けた。その様子を見て洋介は、幼い頃の自分と姉を思い出した。
 両親が事故で亡くなったのは、姉の明子が五歳、洋介が三歳の時だった。その後、子どものいなかった伯母夫婦に引き取られた。伯父は男の子だけでいいと言ったらしいが、引き離すのは可哀想だと伯母が説得したらしい。
 洋介はいつも明子に引っ付いていた。かくれんぼをしても、鬼ごっこをしても、手を繋いでいた。洋介を連れた明子は、すぐ鬼に捕まった。お転婆だった明子は、一人ならきっといつまでも捕まらなかっただろう。洋介は自分がお荷物になっていると感じていた。けれど明子はどんな時も、
「洋ちゃん、おいで」
 と、手を出してくれた。
「まだ、時間あると?」
 女の子が尋ねた。母親が頷くと、女の子はリュックのポケットから、キャラクター物の小さなノートと鉛筆を取り出した。
「おかあさん、誰か、電話番号言うてくれん」
「それに書くん?」
「うん。おかあさんの知ってるやつでよかけん」
 女の子は真剣な顔をして、鉛筆を構えている。
「じゃあ、おばあちゃんから。0798」
「0798?」
「そう」
 女の子は下を向いて、一つ一つ書いている。
「それから?」
「34」
 覚えたてなのだろうか。とにかく数字を書きたいのだろう。大きさは不揃いで、「4」は次の行に移っている。またしても洋介の思いは、幼い頃に戻っていた。
 小学校に上がった明子は、よく家で字の練習をした。洋介は、それを見るのが好きだった。四角いマスの中に薄い点々で書かれたひらがなを、明子の鉛筆の先がゆっくりなぞっていく。明子の指の間に納まった鉛筆は、明子の神妙な従者だった。明子が息を吐いて手をどけると、黒い「あ」だの「い」だのがくっきり現れる。洋介は、自分が「あ」だの「い」だのになって現れたような気がした。ある時明子は、
「洋ちゃんもやってみる?」
 と言って、洋介を座らせ鉛筆を持たせた。そして後ろにまわり、洋介の手を上から握り、ゆっくり力を加えた。自分の手の中の鉛筆から、黒い線がこぼれ出る。
「書けた、書けた」
 明子は、手をたたいてくれた。鉛筆を持った手の甲が、ほんわりと暖かかった。
「はい、次」
 女の子の声がした。
「じゃあ、けん兄ちゃん。0798」
「0、7、9、8……」
 うつむく女の子の手元を、弟が覗き込んでいる。洋介の隣に座らされた小さな子も、二人の方を見ながらしきりに声をあげる。
「32」
「ちょっと待って、3、2」
「3」を書いてから、女の子は前を向いて少し考え込んだ。
「2? 2、2って、こがん?」
 女の子は、母親にノートを見せている。2のカーブが逆になっていた。
「ちょっとだけ、違うわ」
 女の子の鉛筆を取り、母親がノートの隅に書いて見せている。女の子は、鉛筆の後ろに付いている消しゴムで、先に書いた逆向きの「2」を消し、もう一度書き直した。
 あの時明子は、自分で書いたのとは明らかに違う、ガタガタと躓(つまず)きそうな洋介の字を消さなかった。あれは宿題だっただろうに、あのまま出したのだろうか。それとも、洋介の見ていない所で、書き直したのだろうか。
「まだ、あると?」
「しょうこおばちゃんは、どう?」
「うん、しょうこおばちゃん」
「じゃあ、0798……」
「また0798? もっと違うんがよか」
「せやけど、他のん、お母さん覚えてへんもん」
 0798、0798。さっきまでするりと入ってきていた番号が、今度は洋介の耳元で足踏みをした。
 洋介はそれが、明子の家の市外局番と同じであることに気づいた。西宮市だ。慌てて、内ポケットの手帳を探る。裏表紙に書いてあるその番号は、0798・34で始まっていた。目の前の母親が、最初に言った「おばあちゃん」の局番と同じだ。三か月前、病院から掛けて来た義兄の電話が蘇った。
「二階がそのまま落ちたんや。一階はぺっちゃんこや。明子も一緒に潰されてもた。あこら一帯、全部や。なんもかんも、わやや」
 一月十七日の朝早く、阪神地区から淡路島にかけて大きな地震に襲われた。営業先でそれを知った洋介は、すぐに明子の家に電話したが繋がらない。度々掛けなおしたが、同じことだった。いらいらしながらも、洋介はどこかで高を括(くく)っていた。きっと、大丈夫だ。もし、何かあったなら、連絡があるはずだ。何も言ってこないのは、何も無かったのに違いない。ただ、連絡のしようがないのだろうと。
 翌日から、営業車のラジオはつけっぱなしにした。昼はテレビを見るために、店に入って食べた。けれど、ラジオもテレビも同じことを繰り返すばかりで、被害の全貌はなかなか明らかにならなかった。最初は一桁だった死者数が、あり得ないスピードで増えていく。身元判明者の氏名や住所が流れ始めた。土地勘のない洋介には、次々に出てくるそれらの住所が果たして明子の家に近いのか遠いのか、判断のしようもなかった。必死に耳をすませ画面を睨んでいたが、そのうちに、死亡した人の中に明子夫婦の名前を探しているような、妙な気分になってきた。洋介はラジオを消し、テレビも見ないようにした。そして、いつもと変わらずぎゅうぎゅう詰めのバスで会社に行き、営業先で笑顔をふりまき、コンビニ弁当を食べていた。
 自身も大怪我をした義兄から連絡があったのは、地震から一週間程経ってからだった。一階に寝ていた夫婦の上に、二階がそのまま落ちて来たのだと言う。一緒に運ばれた病院で、明子は死亡が確認されたらしい。直ぐに行く、と言った洋介に、義兄は泣きながら言ったのだ。
「来んでもええ。来てもしゃあない。もうな、おらんねや。明子はな、もう、どこにもおらんねや」
 実際のところ、山陽新幹線は不通。飛行機は飛んでいたが、その先どう行けば良いのか分からない。義兄はまだ入院中だし、自分が行ってどうなるものでもなかった。
 洋介は手帳をポケットに戻し、立っている若い母親を見た。局番が同じだから、そう離れてはいないはずだ。この母親の実家があるのだろうか。そう言えば、母親は関西訛りだった。ひょっとしたら、明子の事を知っているかもしれない。そう思い声をかけようとした時、頭上のスピーカーからアナウンスの声が落ちてきた。
「大阪空港行き四二四便にご搭乗予定の、ヤマグチトシコ様ヤマグチトシコ様、至急、一番ゲートまでお越し下さい」
 母親は、ビクンと辺りを見回し、
「行かな」
 と、短く叫んだ。女の子は直ぐにノートと鉛筆をしまうと、リュックを背負った。弟はぴょんと飛び降りて、長靴に足を入れた。洋介の隣でおとなしく座っていた末っ子を抱き上げた母親は、
「あっちや」
 と、一番ゲートの方を指さして、走り出した。女の子は弟の手を掴み、追いかける。リュックに付いている鈴が、チリチリ鳴る。そしてあっという間に、ゲートの向こうに消えて行った。
 洋介は、もう一度手帳を出し、裏表紙を広げた。可愛がってくれた伯母は、二人が中学生の時に亡くなった。伯父と折り合いの悪かった明子は、高校卒業後すぐに大阪へ出て就職し、結婚した。三年前の伯父の葬儀に帰って来た時、空き家になっている義兄の実家に、近々引っ越すのだと言った。
「電話番号だけでも、先に教えとくよ」
 そう言って手を出した明子に、洋介は手近にあった手帳の裏表紙を広げて渡した。
「洋ちゃん、こんなとこに書くの?」
 明子はそう言って笑いながら、ペンをとった。やっぱりその時も、洋介は明子の手元を見ていた。短く爪を切った、節の高い明子の手。キュッと握った人差し指の三角の山。黒い事務用のボールペンから、なめらかな数字が現れる。

 急に空いてしまったベンチを、洋介はぼんやり眺めた。さっきの幼い兄弟たちが、まだそこで頭を寄せあっているような気がしてならなかった。
 前方は一面ガラス張りで、外は白く霞んでいる。灰色の滑走路の上を、玩具のような飛行機が、ゆっくりと動いている。
 手帳に指を挟んだまま、洋介は動けなかった。

《『樹林』2021年2・3月合併号(通教部作品集)より再掲》

作品寸評

 洋介は姉の葬儀のため福岡空港から大阪へ向かおうとしている。ゲート前のベンチに座っていると三人の子供を連れた母親がやってくる。六歳ぐらいの女の子が年長。弟の世話をしながら母親に電話番号をせがむ。数字の練習をしたいのだ。母親が口にする番号は西宮市の市外局番。これから洋介が向かおうとしているところだ。幼い頃の姉との出来事を思い返していた洋介はベンチから動けなくなる。
 説明描写に過不足なく、ほどよい緊張感の中で物語は進む。姉の葬儀へ向かうという設定も生かされている。現実と過去の出来事が自然に結びついていて強引さは感じられない。六歳ぐらいの女の子もうまく描かれていて明子姉が立ち上がった。幼い子が数字やひらがなを覚えようとする場面には特にリアリティーを感じた。
(若林 亨)