在校生の作品

八重はん

衣奈(えな) 響子
(通教部本科/小説クラス)

「もう、こんな家におられへん!」
 プラスチック製に替えたばかりの茶碗を床に叩きつけ、父は今日も外に出ていった。うんざりするものの、どこに向かっているか確認するため、玄関のドアをそっと開ける。
「まあ、お懐かしい」
 華やいだ声が聞こえた。赤い車に乗った女性が父に声をかけている。
「まいど……」
 父の声は別人のようにちいさい。
「あら、お習字教室でお世話になりました、中村八重でございますわ。私、休んでおりましたので、三年ぶりくらいかしら。ご無沙汰しております」
「ああ! 八重はんかいな!」
 父の声は、ほとんど絶叫だった。

 道の真ん中で話に興じる父と八重はんを家の中に引き入れ、あたふたと茶を出した。十年前に夫を亡くしたため隣の町に独り住まいと、八重はんが私に語ると、父は自分も妻を亡くしたと涙ながらに遮る。話題は転々としたが、三年前、八重はんが大腿骨を骨折し、『さくらクリニック』というデイケアセンターに通所したというのに、私は思わず飛びついた。
「その、『さくらクリニック』って、どんなところですか」
「普通のデイケアセンターですの。みんなそれぞれにご指導いただいて運動しますのよ」
「お父さん、ケアマネさんに聞いてみようか」
 父は、私が勧めることは全て無視する。しらっと茶をすすっていた。
「父はお医者さんから、デイサービスを勧められてるんですけど、行かないんですよ」
「あらまあ、どうしてかしら」
「ケアマネさんから勧められたデイサービスに一度だけ行ったんですけどね。歌とか手遊びに、アホくさ! とか怒鳴りつけて、家に戻ってきたんですよ」
「それはよほどお嫌いでしたのね。『さくらクリニック』は運動がメインでございますの。でも、お年を召している方ですと、お疲れになられるかもしれませんわね」
 優しい微笑みを浮かべている八重はんを、父はきっと見つめた。
「これでも運動は万能でねえ。いっぺん、そのクリーク(クリニック)に行きまっさ。おい」
 おい、と呼ばれた先は、もちろん私だった。
「すぐ、手配するように」
 指示されムッとしかけたが、これはチャンスだと気づく。私は八重はんに中座を詫びながら、ケアマネージャーに電話をかけた。

 八重はんが月曜日と水曜日の午後我が家に来るため、父は火曜日と木曜日に件の『さくらクリニック』に通うようになった。八重はんが来る前日は、父は三面鏡の前で顔をマッサージし皺を伸ばすのに余念がない。
「八重はんに菓子出さなあかんで。何か買うてるんか」
 何度も確認するのには閉口するが、以前のようにカッとなって殴りかかってくるのと比べると大違いだと、唯一の楽しみのウイスキーを飲みながら、自分に言い聞かせる。
 月曜日、八重はんが来る一時間前に、私は郵便局に行こうと玄関のドアを開けた。
「あら、こんにちは。早かったかしら」
 八重はんだ。ワンピースのデイジー柄に目が吸い寄せられたが、郵便局に行けないと気づき、思わず舌打ちをした。玄関前まで来ているので仕方がないし、八重はんは白い紫陽花の束を抱えている。
「お花をたくさんいただきましたので、ちょっとお裾分けと思いましたの」
 父が声を聞きつけたのか、顔をだした。
「八重はんやないか。はよ、あがってや。お前、ご案内もせんと何しとんねん」
 スリッパを出し、慌てて大ぶりな花瓶を探していると、「白い花ねえ。あなた色に染めてって、なあ」と、上ずったような父の声が聞こえ、寒気が走る。
「あの、花瓶をお借りできますかしら」
「花瓶? うちにあるんかいなあ。この通り、雑な生活やからねえ」
 やんわり遮られても、父はまだ調子にのっている。

「夏子さん、お買い物とか行ってらっしゃいな。私がお父様のお相手をしていますから」
 ひと月ほど経つと、八重はんは来るなり、私に声をかけるようになった。
「あ、そんな、とんでもない」
 首を振りながら、家の中を物色する八重はんが思い浮かぶ。父は父で、私を追っ払おうと躍起になっていた。
「夕飯の用意したんか」「風呂の用意は」挙句の果てに、「隣、ほれ、誰やったかいな……。あのじいさん、元気にしとるんか。この頃見かけへんで。ちょっと見に行ったらどうや」とまで言い出す。八重はんは素知らぬ風で、手鏡で顔やら髪をチェックしている。
 あまりにも露骨だ。ウイスキーを飲んだが収まらない。八重はんが帰ってから父に向き直った。
「お互い、ええ年して恥ずかしい」「お母さんが知ったら、びっくりやろ」
 父はぴくりとも動かない。私は苛々した。
「あの人、ほかの年寄りにもベタベタしてるんと違う?」
 いきなり新聞を投げつけられた。煎餅の空き箱やティッシュの箱もどんどん放ってくる。「化粧濃いし、皺も多いで」と念押ししてやると、拳骨を振り上げられトイレに逃げ込んだが、さすがに虚しくなり、それからは、八重はんに茶を出した後は台所でウイスキーを飲みながら、ネットであれこれ見るようになった。認知症の投稿サイトを見つけ、見も知らぬ人に応援メッセージを出した勢いで、八重はんのことを投稿してしまった。
 
 ―それ、ちょっとヤバいかも。見張ったほうがイイよ。
 ―後妻業とかあったよね(笑)
 ―マチガイがあってからじゃ、遅い! イッセン越えてるかも。
 ―お年寄りでも恋愛は自由です。積極的な老人も多いそうだよ。
 
 皆、親切なのか面白いからかわからないが、ひっきりなしにレスがくる。考えすぎでしょう。そう思いながらテレビをつけたが、やはり気になる。
「まさかね」
 私は椅子からそっと立ち上がり、父と八重はんがいる部屋の隣の仏間にするっと入った。途切れ途切れに声が聞こえる。
「夏子さんも、お仕事を辞められて。定年までまだまだでございましょう」
「まあ、家族やから心配して当然でっしゃろ。家におったら、身体、楽やし、あれも喜んでますわ。それに、どうせ独りもんやからな」
「あら、私も独りもんでございますけれど、それなりに用事もございますわ」
 八重はんが反論したが、父は何もこたえない。
 偉そうに! 部屋の中に入って怒鳴ったろか、と狂暴な気分になる。しばらくすると、何も聞こえなくなった。二人の間では自然なのか。これほど静かになるなんて。
「あんた、再婚とか考えとらんのか」
 意地でも聞き漏らすまいと襖に耳をぴったりあてていると、いきなり聞こえた。八重はんはどう返すだろう。ここで二人の気持ちが一致したら、再婚する運びになるのだろうか。
「あら、珍しい」
 八重はんの声が弾んでいる。窓を開ける音もした。
「あれはタマシギじゃないかと思いますの。ほら、ご覧になって」
 父は何やら呟いているようだが、聞こえない。
「タマシギって鳥なんですのよ。ほら、そこの田んぼにおりますわ」
 父はタマシギとやらに興味はないですよ、と部屋の中に乱入してやったらどうなるだろう。
「あの、タマシギって、イッサイ、タフなんですのよ」
 八重はんは、くすくす笑う。イッサイ、タフって何だろう。考えていると、八重はんは珍しく笑い続けていた。

 一妻多夫とはわかったが、八重はんがいきなり、タマシギを見つけたと話を遮ったのは再婚から話を逸らすためだろう。私は八重はんにすこし同情した。しばらく、我が家に来ないかもしれない。父は落ち込むだろう。
 けれども、八重はんは定期的に我が家を訪れた。私が追い払われるのも相変わらずだったが、二人は穏やかに会話を楽しんでいる様子だった。
「あんた、ほんまきれいやなぁ。男おらんのか」
 鮮やかな黄色の帯をしめた浴衣姿の八重はんに、下卑た問いかけをする父にはうんざりするが、八重はんは適当に返事をしている。
 九月になり暑さもすこし収まった。私は新しくできたカフェに行ってみようと思いついた。
「あの、ちょっと、買い物に行ってもよろしいですか」
「あら、どうぞ。行ってらっしゃいませ」
 八重はんは着物のおはしょりを引っ張りながら、返事をする。
「私の携帯電話の番号です」
 メモを渡すと、八重はんはじっと見た。
「あ、字、小さかったですかね。私が八重さんの携帯電話に登録しましょうか」
「あらあら……。では」
 あっさり携帯電話を渡され拍子抜けしたが、八重はんは私の手もとをじっと見ている。
「お早いわねえ。私など、超ノロですのよ」
 八重はんは楽しそうに、私の顔を見た。
「夏子さんって、お幾つでしたかしら。還暦にはなられたわよね」
「あ、まだです。五十になったばかりで」
 悪気なく言ったのだろう。そう思っても、顔が強張るのがわかる。携帯電話を邪険に返したが、気分が収まらない。私は台所に戻って、ウイスキー瓶に直接口をつけた。家を出ると、益々癪に障ってくる。たしかに私の顔を見て、還暦と言い、「あらあら、ご無礼を」と笑っていた。思い出すと、目もとが焙られたように熱くなる。気づくと、カフェとは逆方向に猛然と歩いていた。すこし涼しくなったとは思えないほど、頭から汗が噴き出る。汗が頭から首筋に垂れ、手で拭いながら歩く。この暑さの中、よくもまあ、着物なんか着ているなとまた忌々しくなった。
「夏子さんも、お仕事を辞められて。定年まで、まだまだ先でございましょう」
 そうだ。あの女はそう言った。私が六十歳ではないことはわかっているじゃないか。
 走った。ふわっとしたワンピースとヒールのあるサンダルで躓きながら走りに走った。家の前に着くと我に返った。部屋の襖を開けるには、理由が必要なのだ。忘れ物を取りに……。いや、そんな言い草は通用しない。どんなことを言っても、あの女には見透かされるだろう。
 汗が目に染み涙が出た。目をこすると、マスカラで手の甲が黒くなる。のろのろと門扉を開け、玄関の前に立った。我が家は古いから、玄関のドアや廊下が度々軋む。どちらかの音が鳴ったら、あの部屋の襖は開けない。そう決めて家の中に入る。しかしどちらも軋まなかった。二人がいる部屋の隣の仏間に忍び込む。
 何も聞こえない。私は襖に強く耳を押し付けた。二人とも居眠りしているのかもしれない。あの年齢だし。そう思ったときだった。
「ええ、なぁ」
 鈍い溜息のような、くぐもった父の声が聞こえた。微かに、ねっとりした吐息も重なっている。
 全身から汗が噴き出し、胸苦しくなった。
「家族やったら心配して当然でっしゃろ」
 父がそう言った。私は今とても心配している。だから開けるのだ。襖の引手に指をかける。自分の家だ。襖を開けて何が悪い。拳を握ったり開いたりしながら、息を止めて襖を開ける。が、隙間は細すぎた。身体がぐらぐら揺れるので腹に力を入れ、目を隙間に押し付ける。
 いきなり襖が開いた。不意を突かれた私は畳に転がり落ちた。
「何、しとんねん!」
 八重はんが仁王立ちしている。
「あんた、覗いてたやろ」
 私の歯がガチガチ鳴り、熱病か発作のように身体も震えだした。
「気色悪い! 黙っとらんと返事しいや」
 転がったままの私に、八重はんは捲し立て唾を飛ばした。
「なんや、何事や!」
 父も叫んでいる。私はやっとのことで正座し、八重はんに頭を下げた。
「あの、あの、すみません」
「謝ってって頼んどらんわ。何で覗いとんのか聞いとんねん」
「心配で、あの、父が」
「心配って、あんた、うちが何かするとでも思っとんのか、え!」
 何かこたえないといけないのに、舌が動かない。頭や顔から汗か涙か何かがボタボタ流れ落ちている。私の喉奥から蛙のような嗚咽の音が響いて止められない。八重はんが何か言っているが、わからない。荒い息遣いが近づいて私の肩を掴む。逃げたい。でも身体が動かない。
「もうええ、もうええ」
 父だった。八重はんと私の間にどさっと座った。
「八重はん、ほんま、すんまへん。悪かった。けど、許したって、な。あんた、せっかくの別嬪が台無しやで」
 八重はんは身じろぎもしなかった。

 八重はんは来なくなった。父がずっと溜息をついているので、その度、私は謝るという繰り返しだ。初めは本心から謝っていたが、一週間ほど経つとさすがに嫌気がさし、テレビをつけっ放しにして、日々をやり過ごした。そんな日が十日ほど続いた。
「あの女な」
 昼食時、父がテレビの画面を指した。着物姿の演歌歌手が喋り捲っている。
「似とんなあ」
 八重はんのことだろう。しかし、演歌歌手はどうみても若かった。
「誰に? あんな友達いんの? あのひと、まだ五十代やで」
 久しぶりに飲んだウイスキーが私を饒舌にした。
「って、誰かわかってるんやけどな。じつは」
 父はテレビから目を離し、私をじっと見た。
「わかるんやったら、言うてみい」
「八重はんでしょうが。いつまで言うてんのか」
「なんや、その言い方は」
 父は立ち上がって箸を投げつけた。
「ほんま恥ずかしい、あんな女と。お母さんが泣いてるわ」
 言い返すと、父はどさっと座った。洟を垂らしている。私は乱暴にティッシュの箱を父に押し付け、外に飛び出した。気分は最悪だ。歩き続けると、いつの間にか隣の町にいた。八重はんが住んでいる町だ。
 よし、八重はんの家を探してやろう。もうやけっぱちだ。
 まだきつい日差しがじりじりと照り付け、あの日を思い出す。歩き回っていると、いきなりぐわんと眩暈がした。熱中症かもしれない。何か飲もうと慌ててポケットを探ると、五百円玉が出てきた。コンビニや自販機もなかったが、CAFEと書いた看板が見えたので、急いで近づいた。
「外に出ると暑いわね」
 女の声が聞こえる。CAFE横のスペースに止めた青い外車から女が降りてきた。それは、エメラルドグリーンのワンピース姿の八重はんだった。
「あ、あの」と口走ったものの、我ながら情けないほどちいさい声だ。バンとドアが閉まる音がした。同じ車から出てきた男性がサングラスを胸元に仕舞いながら私を見るので、益々びくびくしてしまう。八重はんは素知らぬ顔で男性とCAFEに向かう。二人は指を絡ませている。
「八重さん」
 呼びかけたが、八重はんは振り向かない。男性は八重はんを軽くつつく。すると、八重はんは男性の背中に大きく手をまわし、空いている手で私のほうに犬猫を追っ払うかのような仕草をした。男性には見えないと思っているのだ。
 私は八重はんと男性の間に強引に割り込んだ。そして、八重はんに顔を近づける。
「八重はん、父とよりを戻してくださいよ」
「な、何やて」
 間近で見ると、アイラインで囲まれた八重はんの眼はまるで肉食獣のようだ。 八重はんから肩を押されたが、負けずに睨み返す。
 すると八重はんが片頬でにやっと笑った。思わず見入るほど、冴えた面構えだ。しかしそれは一瞬で八重はんは小首を傾げ艶やかな笑顔を男性に送る。男性は素早く車に乗り込み、八重はんの横にピタリと着けた。
「ひどいですよ! あんな仲やったのに、父を捨てるんですか」
 声を張ったが、八重はんは黙って車に乗り込む。狭い路地に不似合いなエンジン音が響き、車は走り去った。
 私はずんずん歩いた。自販機をやっと見つけ、ミネラルウォーターを買い一気に飲み干した。汗がだくだく流れる。
 やった。やったった。どうや、驚いたやろ。
 ダッシュした。きっと私も冴えた面構えになっているだろう。笑いがどうしても止まらない。

《『樹林』2018年9月号(通教部作品集)より再掲》

作品寸評

 登場人物は私(夏子)、父、八重はんの三人。八重はんのキャラクターが突出して魅力的である。老いた父は色気づき、八重はんの前では態度をころりと変え、それを腹立たしく感じる夏子がコミカルでおもしろい。また、八重はんがミステリアスで夏子と一緒に読者のわたしもハラハラした。夏子は、父との二人暮らしの息苦しさに風穴を開けてくれた八重はんの存在が、ありがたい反面、父への心配と八重はんのうさんくささが相まって反感もおぼえだす。そのあたりの微妙な心理の変化もうまく描けている。圧巻は、夏子が父と八重はんがいる部屋を立ち聞きする場面。父親のエロのにじんだセリフも最高。このあたりは臨場感があり、先へ先へと読ませる力もあってうまい。ラストで夏子を八重はんときちんと対決させたことで、胸がすく思いがあった。また、この反撃の動機は「父のため」であり、親子愛という大きなテーマにも繋がり、短編としてうまくまとまっている。だが、この作品は長編の起承転結の「起」であり、もっと長い作品を呼び込む力もあるのかもしれない。
(美月麻希)