在校生の作品

象さん、キリンさん、カバさん

うめの しとみ
(通教部本科/詩・エッセイクラス)

「象さーんにしますかあ? キリンさーんにしますかあ? それともカバさーんですかあ?」
 カーテンの向こうから舌足らずの女の子の声がする。
 象? キリン? カバ?
 隣のベットには動けない九十三歳のお婆さんが寝ているはずだ。確か、谷村トメさんという名だった。
 象とはなにか、キリンとは、カバとはなにか。
 私は手を伸ばして境のカーテンを少し指先で押し開けてみる。
 谷村さんは、ベットの背を立てられ坐らせられている。薄い頭髪、黄土色の疲れた顔色。目は瞑ったまま。三十数キロあるかないかの細い身体。はだけたお仕着せの病衣の裾から木の棒の色と形の脚が見える。横にピンク色した頬の看護師の格好をした若い女が立っている。手に絵本のようなものを持っている。
 何だろう? 私はカーテンをもう少し広げた。
 その若い女は本を広げて谷村さんに見せている。谷村さんに反応はない。ぼんやりと口を開けている。きっと口の中は乾燥しているに違いない。
「どれが好きですかあ? カバさーんにしましょうかあ? カバさーん可愛いですよねえー」
 もっとはっきりとしゃべれないものか。聴いている私はイライラする。谷村さんがずり落ちていく。
「ご気分悪いですかあ? 悪かったら言って下さいね」
 あの土色の顔色、気分が悪いにきまっているじゃないか。谷村さんはズルズルとベットを下がっていく。ベットの背の角度が急なのだ。

 私は、この療養型医療施設に早紀代さんを一週間に二回見舞いに来ている。見舞いというよりボランティアだ。洗濯や買い物をしている。
 早紀代さんは、六か月前道路を横断中に転がってきた空き缶を避けようとして足がもつれ転倒した。救急車で玉河総合病院に運ばれた。大腿骨と左手首を骨折していた。左手首にギブスをはめ、太腿には金属の棒を入れた。手術をしたのは、ひっきりなしに救急車が出入りする市内唯一の総合病院だったので、そこには長く入院はできない。七十八歳の彼女は一人暮らし。結婚はしなかった。親族は誰もいない。町内会の人との付き合いもない。そこで、私に頼ってきたのだ。七十歳を超えている私もお隣りという以外頼られるほどの付き合いはないのだけれど、窮鳥懐に入る、の状態では断ることもできない。彼女は自分で確実に不安なく歩けるまで家には帰れない。自立歩行まで療養型のここに入院していなければならない。早紀代さんは骨粗しょう症が進行していた。気をつけなければ、また、どこか折れるかもしれない。身の回りのことをする人が必要なのだ。

「象さーんが好きですかあ? キリンさーん? カバさーんはどうですかあ?」
 幼子に言い聞かせるような言葉が続く。
「何をしているの?」
 私は早紀代さんに訊いた。
「あれはね、看護学校の研修生なのよ。年寄りに塗り絵をさせる課題があるらしくって、ああやって病棟を回っているのよ。昨日は、谷村さんの隣のベットの団原さんだったわ」
 境のカーテンは開いている。団原カメノさんは、海老のように身体を丸めて動かない。彼女も細い。この部屋の老女は皆細い。白髪はもちろんだが、頭の中心には毛がない。
「どうして? ここの部屋の人なの? あなた以外塗り絵なんかできないでしょう。皆寝ているだけだもの」
 私は首を傾げた。
「そうなのよ。昨日は塗り絵をしてもらえなかったようよ。当たり前よね。団原さん、苦しそうな呼吸しているもの」
 団原さんの薄い掛け布団が少し上下に動いている。幾本かの管が下がっている。
「何人かに塗り絵をしてもらわなきゃ、卒業できないのでしょうね」
 私と早紀代さんは顔を見合わせて苦笑した。

「みんなかわいいね」
 細い声がした。谷村さん? 覗くと谷村さんが目を薄く開いて微笑んでいる。口の端が少し上がっているだけだけれど。
「象さんにしますか? キリンさんですか? カバさんですか?」
 このチャンスを逃してはならじと研修生が勢い込んで言う。甘ったるさは消えて、口調がしっかりしている。やろうと思えばできるじゃないの。
「カバさんが、かわいいね」
 谷村さんが細い細い手を出して、カバさんを指差し、研修生の差し出したクレヨンを握ろうとしている。
 研修生よ、わかるかね。谷村さんの優しさが。彼女は、本当は寝ていたいのに、若いあなたのために力を振り絞って塗り絵をしてあげようというのだ。あなたの未来のためにカバを塗ろうというのだ。これぞ、老人の懐の深さ。円熟の力。人間の美しさだよ。わかるかしら?
「カバさーんにしましょうねー」
 研修生の声が一段と高くなる。もう甘ったるくなっている。

「私、歩けるようになるかしらね。リハビリで歩く練習をすると痛くてね」
 早紀代さんが言う。
「大腿骨を骨折して歩けるようになった人を私は知ってるわよ。やれば歩けるようになれるから、リハビリしているんでしょ」
「こんなに長生きするはずじゃなかった。生きててもすることもないし、死にたいわ」
「あなた、内臓が丈夫なんだし、足ぐらいで死ねないのよ」
 早紀代さんは下を向いて顔を上げない。
 力が湧いてこないのだ。たとえ治って自宅に帰ってもまた寂しい一人暮らしが待っている。希望が持てないのだろう。六ヶ月も治療しているのだから、もう歩けるはずだ。なのに今日は右足の先が、昨日は腰が痛いと訴え続けて、リハビリを休む。
「カバさーん上手に塗れますねー。谷村さんすごい!」
 谷村さんは、目を瞑っている。細い細い肩がユラユラ揺れている。右に倒れそうだ。鉛筆は握っている。鉛筆と指が同じ太さ。谷村さんの指を並べて筆箱に入れたらきれいにきちんと並ぶだろう。
「失礼します」「失礼しますね」
 三十歳と五十歳ぐらいの二人の看護師がやってきて、サッと団原さんのカーテンを音を立てて乱暴に引いた。団原さんが見えなくなった。
 何? 早紀代さんに目で問うた。
「オシメ交換よ」
 小声で答える。
「あら、大変。ちょっと清浄の水持ってくるから。あらら、シーツまで沁みてるわ」
 年配の看護師さんの低く太い声がする。
「死にたい」
 早紀代さんが細い声で言う。
 だから死ねないって。足ぐらいでは死ねません。
 早紀代さん、自宅に帰ったら町内会の、お達者クラブに入りましょ。バス旅行やランチ会、麻雀にゲーム大会なんかもあるんですって。賢いご老人が沢山よ。二丁目の山中さんが、短歌を教えてくれるし、刺繍も焼き物も習えるわ。読書会もあるわ。
 本好きの早紀代さんが顔を上げ、頷く。瞳が潤んでいる。

 赤いリンゴ、黄色いバナナ、緑色のメロン、真っ白の生クリーム。てっぺんにピンクのサクランボ、ぷるんぷるんのプリン。ああ、美味しい。
 早紀代さんを見舞った帰りには、いつも近くのファミリーレストランに寄る。今日は、プリンアラモードを食べた。塗り絵に最適の配色のプリンアラモードを夏の日差しの差し込む席でほおばる。
 簡単に元気になる魔法なんてものはこの世にはない。とりあえず私はプリンアラモードを食べていると元気が湧いて来る。早紀代さんと、谷村さんと団原さんとクリクリ目の研修生も同じテーブルに坐らせて、わいわいがやがや食べたら面白いだろうな、なんて空想しながらサクランボを唇を尖がらせて銜えた。

作品寸評

 作者のうめのしとみさんは山口県在住で、昨年12月の通教部スクーリングに出席している。そのときの一部始終は、本ホームページ「在校生の声」で生きいきと伝えられている。今度の3月スクーリングに向けて提出された本作「象さん……」は、担当の冨上チューターから、《文章、内容とも読ませる作品である。私は今まで、これほどのエッセイを文学学校で読んだことはない》と、絶賛されているものである。
 ぼくには、エッセイの枠を超えて、小説的に読めた。丹念に場面を描写しているし、考えや思いをとどけようとするのではなく、読者の情感をゆさぶってきているからだ。謎めいた書き出しになっているのも、小説的だ。年若い看護研修生に、心のうちで何度も毒づきながら、最後には、会食の場に彼女も誘おうと空想していて、読後感がよかった。70歳を超えた作者の若者をみる目は、厳しくもあり優しくもある。
(小原政幸)