在校生の作品

短編小説「水たまり」

森田 純
〔通教部専科/小説クラス〕

隆弘は調理場でサプライズプレートの仕上げを手早く行うと、打ち合わせ室に向かった。最近新調したコックコートの左胸には、アルファベットで名前の刺繍が施されている。金色の糸を右手でなぞると、気が引き締まるような気もする。着られている感じになっていないか、途中バックスペースの姿見で全身をチェックする。まずまずといったところだ。コックコートを脱げば、腰痛に悩む四十代のしがないおじさんである。
 パーテーションで仕切られた打ち合わせ室。上部は数十センチ空いていて、そこから声がもれてくる。ウエディングプランナーである優奈の声が聞こえる。
「ご覧いただき、いかがでしたか?」
「とってもすてきなところですね」
 聞き慣れた優奈の声が耳の奥に振動として伝わってくる。優奈のいろんなところに触れたくなる。かしこまった声が、普段の甘えた彼女の声に変換される。扉の向こうには優奈と見学者がいる。
「ありがとうございます。佐藤様のようにお身内だけのご婚礼には、わたくしどものような施設が向いていると思います」
「ネットで見ていたより、ずっとすてきです。実は他にも数カ所見学したんですけど、施設も担当者の方も気に入ったのはこちらだけです。高橋優奈さん――優奈さん、かわいい名前ですね」
「ありがとうございます」
「彼は再婚で、全く興味がないみたいで。私はこんな年齢だけど、初めてだし、やっぱり自分で納得のいく披露宴をしたくて。ひとりで打ち合わせに来る人なんています?」
「いらっしゃいますよ。お仕事の都合が合わなかったり、全て女性に任せてしまう方も」
 見学にいらしたお客様には、最初アンケートに記入してもらい、好きな色や趣味などを確認し、それに合わせて料理プレートを出すという流れである。といってもあらかじめサプライズプレートの料理は三パターンしか用意していない。
 隆弘はノックし、打ち合わせ室に入る。
「失礼します」
 そこには優奈と、黒髪のショートカットの女性がいた。
 ようこ。眼球に映っている人物と、ようこという名前が一瞬つながって、すぐに離れた。確かにプレートにソースでYOKOと書いた。優奈が書いた手配書に佐藤瑶子と書かれていた。ありきたりな名前。視線を落としソースを目でなぞる。プレートを持ったまま、黙っている隆弘に優奈が助け舟を出す。
「佐藤様、当館からのサプライズプレートです。シェフがお客様のイメージで、オンリーワンの絵を描きました。お野菜が好きと伺って牛肉のお料理に色とりどりの鎌倉野菜を添えております」
 隆弘は何も言わず、ようこの前にプレートを置く。置き方が悪く、脇に添えた野菜の一部が少し崩れる。オンリーワンなんかじゃない。三パターンから一つ選んだだけ。なんで俺はここにいるんだっけ? 料理を丁寧に作りたかった。二十年勤めたホテルでは中堅どころになった頃、激務で身体を壊し退職した。ついでに家庭もうまくいかず離婚。今はここ、茅ヶ崎のウエディングハウスで料理長をしている。料理を丁寧に、そして心を込めて作りたい。妥協せず、自分のこだわりを貫きたい。前の職場を辞めるとき、それができないから辞めるんだと自分に言い聞かせた。ここに転職し、慣れたころにはすぐに流れ作業になってしまった。
 ようこ。目の前で優奈と話しているのは、あのようこなのだろうか。
「美味しそう。いただいていいの?」
「どうぞ、お召し上がりください。和洋折衷のお料理をご希望とのことで、当日はナイフフォークの他にお箸もご用意いたします。こちらは鎌倉にある箸専門店の商品で、極細で非常に品があり、ご好評いただいております」
「それはありがたいです。両親も七十代ですし、あまり気負った会にはしたくないので」
 ようこ。両親ともに他界したと言っていなかったか。彼女は一切こちらを見ない。優奈だけに微笑み、話しかけている。そつがなく、誰からも好印象を持たれる微笑みだ。ようことは二年前、百貨店の紳士服売り場で出会った。販売員だった。隆弘は長年勤めたホテルを退職後、再就職活動の際にスーツが必要になった。手持ちのスーツはサイズも合わず、生地も時代遅れ。離婚したばかりの無職男に、あの時もこんな微笑みで話しかけてくれたのだったか。優奈が少し怪訝そうな表情でちらちらと隆弘を見ているのがわかる。
「お時間まで、どうぞごゆっくり」
 普段なら料理内容について話をするが、いたたまれず、どうにか声らしきものを発して、打ち合わせ室を出ようとする。
「あめんぼみたいですね」
 背を向けかけた隆弘は立ち止まる。ようこが、あめんぼと言っている。
「あめんぼ、ですか」戸惑う優奈。
「そうそう、あめんぼ。あめんぼって、いつも水の上にいると思ってる?」
「そういえば最近あまり見かけないですが、水たまりとか小川とかにいるイメージですね。何が……あめんぼみたい、なんですか」
 優奈の問いには答えずに同じ微笑みのまま、ようこが初めて隆弘のほうを見た。色白で華奢な女。優奈とつきあいだしたのは半年前、一緒に暮らし始めたのは一ヶ月前だ。一回り以上年下の優奈が今はかわいくてたまらない。優奈と暮らし始めてからはようこには会わなくなった。
 ようこの向かいに座っている優奈。その脇に立ち尽くす隆弘。ふたりを交互に見ながら独りで淡々と話すようこ。
「小さい頃は水たまりがあるとわざと足を入れてピチャピチャやらなかった? 子供の時はあめんぼもよく見かけた気がする。大人になると水たまりなんて気にも留めないから、あめんぼがいたとしても気がつかない」
 どこを見たらいいのかわからなくなった隆弘は、テーブル奥にあるウエディングの写真に視線を向ける。写真にはドレスを着たモデル。その微笑みがようこの微笑みと重なる。目の前で繰り広げられていることに全く現実味がない。
「あめんぼって普段は陸上で生活していて、餌をつかまえる時とか、交尾の時に水がある場所に行くみたい。か細い印象だけど、肉食らしいの。水に落ちた昆虫を、波紋で感じて捕食するんですって。しかも針みたいな口を獲物に刺して、体内の細胞を溶かして体液をストローで吸うように。ちゅーって。あ・め・ん・ぼ、なーんて、なんとなくかわいらしい名前なのに、結構えげつないですよね」
 ようこの声に膜がかかって、遠くで話しているように感じる。さっきまで和やかに話をしていた目の前の女性がどういう存在なのか、混乱している優奈がいる。優奈の、栗色の柔らかいボブヘアがかすかに揺れている。いますぐ家に帰って、優奈の髪の毛を撫でたい。
 ようこ。ようこの名前は瑶子って書くのか。漢字は知らなかった。毎回居酒屋で飲んで、その後はようこの部屋かラブホテルっていうお決まりのコース。同じ年齢で、四十歳。お互い寂しさをまぎらわす程度のつきあいでいいと思っていた。少なくとも隆弘はそう思っていた。ようこは微笑んだまま、淡々とあめんぼについて語る。
「それと交尾が終わっても、オスはメスの上に乗っかったままで。他のオスにとられないようにするんですって。まあ、これはありがちかな」
 一通り話し終えたのか、ようこは極細のお箸で料理を食べ始めた。細い箸がようこの手の先から生えているものに見える。あめんぼの針みたいな口。水たまりに落ちた獲物。捕食者に届く波紋。溶けだす細胞。体液を吸うストロー。自分と優奈とようこ。水たまりに三人が浮かんでいる。
 ようこが箸を置き、左手をお腹にあてる。大切なものがそこにあるかのように、上下にゆっくりと撫でている。
「佐藤様、あの……」
 優奈の声が波紋になる。水たまりが波打って、足が沈んでいく心地。打ち合わせ室でひとり、ようこだけがやたらと優雅に泳いでいる。

《『樹林』2024年1月号(通教部作品集)より再掲》

作品寸評

 転職、離婚を経験し、現在はウエディングハウスの料理長をしている主人公、隆弘は四十代。腰痛持ちのしがない――と自虐的だが、新しい職場では優奈という一回り以上も若い恋人もでき、いいスタートを切っているように見える。今日は、式場見学にきた客に、気持ちを伝えるサプライズプレートを試食のために運んできた。しかし、そこで待っていたのは見覚えのある女性で……。

 なかなか不穏な気配を感じる作品です。一人で見学に訪れた新婦(予定)の口から出てくる「あめんぼ」が、作品にいいインパクトを与えています。期せずして出来上がった三角関係の澱みのようなものが、タイトルにもなっている水たまりの色まで表しているようです。
 せっかくなので、もうすこし描写をがんばって登場人物に奥行きもたせると、さらにいい作品になるかと思います。

(大沢綾子)