文校ブログ

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新入生「ハガキ1枚」課題、51名から届いています。締切を1週間延ばします。未提出の方、急いでください【できればメールで】。◆作品発表・第3弾【昼間部・坂木夕穂<ゆうほ>さん/夜間部・野村武史さん/通教部・坂本雨季さん】

今春の新入生73名のみなさんに、提出をもとめていた〈課題ハガキ〉は昨日・2日が締切でした。今日の到着分も入れて現在、昼間部21名中15名、夜間部18名中10名、通教部34名中26名の計51名から提出があります。
できるだけ、新入生全員に書いていただきたいですので、あと1週間延ばして最終締切を6月10日(土)とします。まだの方、できればメールでお願いします。
提出作品は全て、「文校ニュース」に載せ、文校の多くの皆さんの眼に触れられるようにします。
課題のタイトル6つについては、5月23日・文校ブログ参照。

既着分の中から、とりわけ印象的な作品を紹介する《第3弾》として、坂木夕穂さん(昼間部/50歳)、野村武史さん(夜間部/44歳)、坂本雨季さん(通教部/70歳)、3名の作品を取り上げます。
すでに文校ブログに載せた《第1弾》は通・桑島良夫さんと夜・竹内華子さんの作品(5/23文校ブログ)、《第2弾》は通・羽立まどかさんと昼・山田佳美さんの作品(5/25文校ブログ)でした。   (小原)

        ☆       ☆ 
 私のふるさと  坂木夕穂(昼・小説・佐伯クラス/神戸市) 

 いくつかの町に住んだけれど、もし自分で「ふるさと」を選べるなら帯広にする。当時住んでいた家の近くには50.5ヘクタールもの敷地をもつ緑ヶ丘公園が広がり、そこには広大な芝生、ボートに乗れる池、動物園まであって、原生林の中を歩くことができた。子どもの園バスを待つ間にもエゾリスが足元を走っていく。世界でも珍しい植物由来のモール泉は、市内の公衆浴場に行けばかけ流されている。出来立てのチーズ、打ち立ての蕎麦、焼き立てのパン、十勝で取れた原料から作られるものたちも町の大きな魅力だ。
 冬の寒さは厳しく、耳当てやニット帽、手袋はファッションではなく、命にかかわる必需品であると知った。スキースクールに入れたはずの子どもが、あまりの寒さにインストラクターとレストハウスでお茶をしていたこともあった。冬の体育はスケートで、運動場に水をまいてスケートリンクにして使う。氷の彫刻が並び、大きな氷の滑り台、ルージュ、花火なども楽しめる緑ヶ丘公園での「氷祭り」も思い出深い。
 帯広まではJRを使っても札幌から2時間半以上かかる。それでも不便さや寒すぎる冬を圧倒してあり余る自然の中で過ごした時間は、今も確かに私の心に根づいている。大地に抱かれて見上げる空の青さ、木々が太陽とたわむれて地上に落とす光と影、幼かった子どもたちとつないで歩いた手のぬくもり・・・・・・、私のふるさと。

        ☆       ☆
 私の歩んできた道「もう逃げたくないけど。」 
    野村武史(夜・小説・西村クラス/大阪市) 

 小学三年生から高校の卒業まで野球を続けました。小学生の頃は練習も試合も何もかもが楽しくて技術は急成長! 歴代チームの記録をすべて更新するほど僕は活躍していました。しかし、中学で入部した強豪シニアリーグの練習が辛くて一年で退部。その後は、中学校の軟式野球部でのんびりと野球をすることにしました。野球は好きだったけど、この一回、苦しい日々から逃げたことで、高校の野球部ではたくさんの悔しい思いを経験しました。僕が入学した高校は、山口県では野球の盛んな学校。野球推薦で入学できたことは良かったのですが、もちろん練習は超ハード。しかも各地から推薦で優秀な選手が勢揃い。一年では当然レギュラーになれず苦しい練習に耐える日々。そんなとき、シニアリーグの同期だった仲間は一年生から夏の大会で活躍していました。あの日、逃げたことで僕は大きく出遅れた。その遅れは三年間、必死に練習したが取り戻せませんでした。高校最後の夏は地区大会の決勝戦で敗退。もしあのときシニアリーグを続けていたら……。苦しさから逃げ出したことを後悔しました。その後、野球は辞めましたが、コピーライターという仕事を知り、大阪へ上京。野球しかやってこなかった僕が文章を書く仕事を目指すとは無謀かとも思いました。でも逃げずに向き合い続け、二十八歳でようやくコピーライターへ。十数年デザイン会社で勤めてから、六年前に独立。逃げ出したくなることは、今も、次から次へとやってきます。

        ☆       ☆
 私の歩んできた道  坂本雨季(通・小説・飯田クラス/大分市) 

 長かった、厳しかった、
 けれど辛かった、苦しかったとは決して言わない。言ったら恥ずべき人生だったと認めることになる。
 若くして夫と死に別れた私は、一人娘と姑を抱えて慣れぬ世界へ身を置いた。地べたをはい回り泥を舐め、ようやく掴んだ小銭をもとに店を始めた。時代はバブル全盛期、うまいこと時代の波に乗った店は儲かった。サラリーマンの年収をはるかに超えた頃、姑が天寿をまっとうした。夫よりも長く、共に生きた人だった。一人娘も嫁いでいった。
 そんな折にふと知り合った、いまの夫との再婚を決めたのも、稼ぎの良い店を捨てる気になったのも、明るくなったら目をさまし、暗くなったら眠るという、そんな当たり前の生活に戻りたいからだった。しがらみから解放された私はもう、メチャクチャに働かなくとも良くなったのだ。
「波乱万丈に生きてきたから残る人生は好き放題やりたい放題、自由気ままに生きてゆきたい」それでも良ければと、身勝手な言い分をとおした再婚だった。それから約三十年。穏やかな性質の夫はいまもなお、私の身勝手に付き合ってくれている。一度たりとも声を荒げたことのない人と暮らしながら、好き放題やりたい放題、自由気ままに生きている私はいま、人生でいちばんの幸せを噛みしめている。